BuzzFeed Japanは8/23、梅毒の感染が昨年に比べて増えていることに対する不安がネットを中心に広がっていることを踏まえて、梅毒の感染について解説する記事を掲載した。看護師資格を持つ感染症対策専門家が「サウナや温泉などでも感染する恐れがあるのか」などの疑問に「絶対感染しないわけではないが、感染してしまう状況が成立する為の条件が揃うケースは稀で、温泉等で感染する恐れは限りなく低い」という見解を示し、過剰に不安視することは適切でないと訴える内容だ。記事の内容は読者に正しい知識を広げたいという志を感じさせるものだった。しかし自分にはそれを「急増する梅毒 温泉でもうつるの?」という見出しが台無しにしているように思えた。せっかく大事なことを記事で書いているのに、見出ししか読まない人の存在を軽視し、そのような人々が「梅毒は温泉でも感染する恐れが決して低くない」と勘違いしてしまいかねない見出しを付けてしまっており、記事の主張とは正反対の受け止めを広げかねない見出しであるように感じた。
昨今記事の見出し、特に主にネットで流通する記事の見出しは、大袈裟、内容と乖離している、扇情的で適切さに欠けるものがとても増えていると感じる。例えば娯楽性の強い芸能ゴシップ記事や、東スポのように、常に大袈裟・紛らわしい見出しを掲げ、それが周知の事実になっているような場合は、それでもいいのかもしれないが、最近は所謂大手新聞社と言われるようなメディアや、今回冒頭で触れたような新興メディアであっても比較的影響力のある、それなりに誠実さを売りにしているようなメディアでもその手の見出しを頻繁に見かける。
例えば、朝日新聞デジタルが8/21に掲載した「壇蜜の「エロ系」宮城PR動画を削除へ 「不快に思っている人にも配慮」」という見出しの記事をハフィントンポストで見かけた。少し前に話題になった、性的なイメージを感じさせる要素を複数含んだ、タレントの壇蜜さんが出演する宮城県のPR動画が、予定されていたキャンペーン期間終了を待たずに公開中止されるということを伝える記事だ。この記事に関してもその内容は、淡々と事案の経緯や動画で問題視された点などが書かれており大きな問題性は感じられない。しかしその見出しは必要以上に扇情的で、場合によっては壇蜜さんなどに対する侮辱と感じる人もいるのではないだろうか。個人的には、壇蜜さんのキャラクター性を考慮すれば、彼女が出演した動画を「エロ系」と評することは必ずしも侮辱とは思えないし、むしろ彼女がそのキャラクター性を期待通りに演じているという褒め言葉にも成り得る評価であるとは思うものの、見出しの文字数の問題かもしれないが、壇蜜と敬称をつけていない点や、彼女が「エロ系」だから削除されたと言いたげな、と記者かコピーライターかは分からないが、書いた者にそう問えば「そのような意図はない」と言うのだろうが、自分には配慮することを意識的に止めた見出しで読者を煽ろうとしているようにしか見えない。この記事が取り上げている件では、自分は賛同しないが、そもそも女性蔑視が懸念されて動画の早期公開取り止めに至ったにもかかわらず、それを伝える記事に、別の意味で壇蜜さんを蔑視していると思われかねない見出しを付けていることに強い違和感を感じる。
何故このような大袈裟、内容と乖離している、扇情的で適切さに欠ける見出しがネット上で横行するのかと言えば、その最も大きな理由は「クリック数を上げたい」ということなのだと思う。確かに記事を書いても読んでもらえなければあまり意味が無い。記者や執筆者がそう思うことにはとても共感できる。しかも仕事で記事を書いているならそこから得られる収入も重要だ。ネットメディアの多くは広告収入に支えられている。見出しでつまらなそうと判断されクリックしてもらえなければ、当然広告収入には繋がらない。そのような状況では記事の内容と同じくらい見出しが重要になる。冒頭で取り上げたBuzzfeed Japanの記事も、少しでも多くの人に記事の内容に目を通してもらい、適切な認識を持ってもらいたいとか、クリックに繋げて広告収入を出来る限り最大化したいという動機を背景に「急増する梅毒 温泉でもうつるの?」という、それだけを見たら勘違いを起こしかねない見出しを付けてしまっているのだと思う。勿論ネット以外のメディアでも同じような傾向がないとは言えない。週刊誌の電車の中吊り広告なんてのはその筆頭のようなものだし、テレビでもワイドショー系番組などではチャンネルを変えられないようにと、各コーナーの掴みや、CM後の内容に対する過剰な煽りは露骨に行われている。個人的にはそれらもそれなりに問題であるようには感じている。
ただ、問題がないとは言えないものの、週刊誌やワイドショーは演出として大袈裟なことを言いかねないようなメディアだという認識は多くの人が持っていると思える。そして大袈裟、内容と乖離している、扇情的で適切さに欠ける見出しがそれらで用いられても、それが収益に直結している程度で言えば、明らかにネットメディアよりは低い。更にあまりにもコンテンツの質が悪ければ批判の的になるし、広告が出稿されなくなったり、販売部数に響くなど、そこにはある程度の抑止力があると考えられる。それに対してネットメディアは、閲覧数が収益に直結するという側面がかなり強く、内容がどうであれクリック数さえ集まれば収益は上がるのに、余程のことがない限り広告出稿がなくなることはない。どこかに広告配信を止められても、別の広告事業者に乗り換えれば問題が解決してしまうという状況がある。更に問題になるような記事を書くことで、それに対する批判を集めることすら閲覧数を上げることに繋がり、それすらも収益になってしまうのだから、既存メディアに比べれば、問題のある主張を思いとどまらせるような抑止力はほとんどないといっても過言ではない状況にあるのではないか。そんなネット全体の状況に引っ張られて、大手メディアの記者やそこに出稿する執筆者の認識も、この程度なら許されるというラインが下げられている傾向にあるのではないだろうか。でなければ、こんなに頻繁に違和感のある見出しを見かけるようなことにならないだろう。
そのような見出しが大手メディアでしばしば見られるような状況でも、指摘する人が少ない・大きく問題化していないなら、社会はそれを許容しているのだから問題ないのではないか、と感じる人もいるだろう。しかし社会の変化というものは、良い変化だろうと悪い変化だろうとある日突然起こるのではなく徐々に徐々にじわじわと変化するので、その社会の中にいるとなかなか気が付かないかもしれない。そうでなければ、例えばユダヤ人などの虐殺を行うような党を政権の座につかせるような判断をドイツ国民はしなかっただろうし、日本だって無謀な戦争に向かうような体制が成立してしまうようなことにはならなかったはずだ。もしそのような事態が起こると国民が知っていたら、何かしら別の判断・運動が起こっていただろう。だから自分は所謂大手メディアで大袈裟、内容と乖離している、扇情的で適切さに欠ける見出しが用いられ始めている状況に強い懸念を感じる。それは差別の助長や、誤った認識を広げる恐れがあると思うし、マスメディア全体の信頼感を下げることにも繋がりかねず、それは人々がより自分達の信じたいこと・自分達にとって都合のよりことだけを信じ、都合が悪いことを嘘だと感じ易くなるような決して好ましいと言えない状況にもなりかねないと思えるからだ。
時代と共にメディアのあり方・表現方法も当然変わってよいとは思うが、悪い方向に変わることだけは極力避けるようにしてもらいたい。