8/25は金曜日で、この日も毎週恒例の都知事の定例会見が行われた。小池都知事が就任する以前の、前都知事の政治資金の不適切な使用が問題視され始めたあたりから、小池知事就任後はオリンピックに関する諸問題、豊洲市場移転問題、都議選などずっと都政に関する注目度の高い事案が途切れることがなかったので、この間都知事の定例会見も高い注目度を保ってきた。この日の会見の注目度はこれまでにも増して高まっていた。しかしその理由はこれまで注目されてきた事案に関してではなく、直前に小池氏がこれまで歴代都知事が踏襲してきた、9/1に墨田区の都立横網町公園で開催される「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に、都知事名の追悼文の送付を取りやめる決定をしたからだ。関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式とは、関東大震災発生当時には「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったデマが広がり、それを背景に虐殺された多数の朝鮮人や中国人を追悼する集会だ。昨年は小池氏もこれまでの都知事同様に追悼文を送っていた。
会見での小池氏と記者のやりとり(ハフィントンポストでは文字起こしがされている)を聞いていると、小池氏が追悼文の送付を止めることに決めた背景には、
「民族差別という観点というよりは、私はそういう災害で亡くなられた人々、災害の被害、さまざまな被害によって亡くなられた人々に対しての慰霊をしていくべきだというふうに思っております」
という彼女の発言から分かるように、関東大震災の犠牲者と一緒に追悼しているのだから、個別に虐殺犠牲者に対して追悼文を出す必要性は薄いという考え方があるようだ。また、
「昨年は慣例的に、事務的に(返事を)戻していたといったことでございまして、それはあとで私はそのことについて、たまたま知ったということから、今回は私自身が判断をしたということでございます」
とも述べており、これまでは慣例的・事務的に出していた追悼文であるから、自分の判断で今年は出さないことにしたということを明らかにしている。
まず、関東大震災に関連して虐殺された朝鮮人・中国人の人数に関しては、南京大虐殺などと同様に様々な見解があり、見解によってその人数については大きな差がある。しかし現在の歴史評価として、虐殺が起きたこと自体がでっち上げだというような見解は決して主流ではなく、一部の極端な人が主張しているに過ぎない。ネットで主に主張を繰り広げる更に極端な人々は、虐殺があったのは事実だが、それは実際に朝鮮人や中国人が震災に乗じたテロ活動を企てたからで、ある意味当然の結果だ、などと主張する人もいる。彼らは一体何を根拠にしてそんな話を信じているのだろうか。まずテロ計画がもし本当にあったのだとしても、法治国家では私刑は許されるべきことではない。当然虐殺が行われても仕方がないなんて判断が許されるはずもない。罪とは裁判で裁かれて初めて確定し、その後それに対して与えられる罰も決定される。例え犯罪があったことが事実だったとしても裁判をすっ飛ばした虐殺なんていうのは容認できるはずがない。
少し話が逸れたが、小池氏は関東大震災の犠牲者として一緒に追悼するというような見解を示しているが、自然災害による犠牲者と、その影響下であっても殺人という犯罪的な行為の犠牲になった人は明らかに性質が異なる。虐殺による犠牲者の追悼式典が個別に行われていないなら、まとめて追悼するという主張も容認できるが、個別に追悼式典が行われ、それに対して首長という立場の人間に追悼文の要請があり、しかもこれまで歴代の都知事が、事務的にだったとしてもその要請に答えてきたという前例があるのに、何故ここで対応を変えるのか理解に苦しむ。
このような追悼文の要請に対して拒否する姿勢を示すということは、小池氏は当時虐殺された朝鮮人・中国人を軽んじていると思われても仕方がない。要するに当時起きた虐殺は大した事案でなく、関東大震災で多くの人が犠牲になったことや、当時の社会情勢では彼らが嫌悪され、虐殺されたのはある程度仕方のないことだ、と思っていると受け取られかねない。人によってはそれは考えすぎだとか、言い過ぎだとかと指摘する人もいるだろうが、これまでの都知事だけでなく彼女自身も昨年は追悼文を出しているのに、例えば実際には虐殺は起こっていなかったという確固たる証拠が発見されたならまだしも、そのような事実もないのに対応が後退したことを考えれば、決して考えすぎ、言い過ぎと断定することは出来ないだろう。
アメリカでは、8/12に起こった白人至上主義団体とそれに反対する勢力の衝突で、白人至上主義側の人間が自動車で反対勢力の群集に突っ込み死亡者が出た事件があった。この事件に対してトランプ大統領が積極的に人種差別を非難する姿勢を見せなかったことについて、当然彼のこれまでの数々の稚拙な振舞いに対する印象もそれに拍車をかけているのだろうが、大統領が人種差別を容認しているという強い非難の声が広がった。自分には小池氏の対応もトランプ氏のそれと全く差がない、若しくはトランプ氏の対応よりも更に悪いとさえ思える。トランプ氏も明確に白人至上主義を容認してはいないし、小池氏も虐殺された朝鮮人・中国人を追悼する必要はないという明確な主張はしていない。しかし共にそのような考えを持っていると思われても仕方がない発言をしていることは間違いない。どちらの件に関しても偏見による憎悪で死亡する犠牲者が出たことは共通している。ただ、小池氏の発言は対象となる事案が直近の事案でないから、トランプ氏の発言ほどには日本国内で大きく問題化していなのだろう。というか、そうでなければ日本は民族差別に疎い国だというレッテルが貼られかねないので、そうであると信じたい。
アメリカでは現在、8/12の事件の影響で人種差別に反対する勢力も必要以上に強硬な行動に出るような事案が起こっている。しかしそれは白人至上主義者による無差別殺人としか言いようがない行為が行われ、その結果死亡者が出たことや、そんな状況をよく考えず大統領が「両方の勢力に責任がある」なんて見解を示したことに対するカウンターで起きていることだろう。個人的にはたとえ人種差別に反対するという崇高な理念があっても、必要以上に強硬な姿勢に出ることは、単に憎悪を煽るだけの容認されるべきではない行為だと考えるが、そんな状況を招きかねない発言を大統領がすることも同じくらい、影響力を考えれば同じどころか更に問題のある行為だと思える。
小池氏が示した慣例的・事務的な追悼文を出さないという判断は、それ自体はそれほど大きな問題ではないかもしれない。しかしその真意を問われ、彼女自身が示したその判断基準は、トランプ大統領の発言同様、必要以上に民族間の対立を煽るような類のものだと強く感じる。果たして彼女が下したこの判断で一体誰が得をするのか。例えば、関東大震災の際に起きた虐殺に関する保障を都に対して誰かが不当に求めているという話が問題化しているなら、問題が解決するまで追悼文を自粛するなどという対応も理解できなくはないが、そんな話は聞いたことがない。個人的にはもしそんな問題があったとしても、追悼と保障は別の問題だろうから、取引材料のように考えるべきではないとすら思う。要するにどう考えても小池氏の追悼文を取り止めるという判断は百害あって一利なしどころか、彼女が民族差別的な思考を持っている感じさせてしまうような種のもので、全く容認できるようなものではない。
この件以前、都議選での優勢が明確化したあたりから感じていたが、この件で決定的に小池都知事も結局基盤固めが終わればこんなものかと感じた。豊洲問題でそれまでの問題点を掘り起こしたまでは良かったものの、都知事選当時に訴えていた透明性の高い都政の実現とやらは既に忘れたようだし、豊洲移転の結論は玉虫色、オリンピックの諸問題も当選前に掲げた目標には至らず、通勤時間帯の混雑緩和は既に話題にすらならないし、待機児童問題も決して大きく改善しているとは言えないような状況。安倍総理が株価を上げ、円安誘導したところまでは良かったのと同様、小池氏も豊洲移転にまつわる諸問題を掘り起こしたところで、彼女はその役割を既に終えたと考えるべきじゃないだろうか。個人的にはもう全く期待感はない。ハッキリ言ってこれでは自民党と大差ないどころか、自民党よりも更に悪い状況だ。国政なんかに進出して欲しくないのは言うまでもない。