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魅力ある景観とは何か


 昨日・8/29のTBS・マツコの知らない世界では巨大看板を取り上げていた。番組の内で巨大看板について紹介していたマニアの男性が「巨大看板は絶滅の危機」と訴えていた。その理由は景観に関する条例の制定や、再開発で立て直されるビルはデザイン上、やはり巨大看板を付けることを嫌がる傾向にあるからだそうだ。都市の景観と言えば、7/21に国交省が日本橋の上を走っている首都高を、景観の悪さや老朽化などを理由に地下へ移設する方針を明らかにしている。この方針に対するメディアやネットユーザーの受け止めは概ね好意的な傾向が強かったようだ。しかし個人的には本当に大金をかけて地下化する必要性があるのか疑問に感じている。

 
 都市部の景観という話で最も槍玉に上げられるのは、マツコの知らない世界でも取り上げられていた巨大看板と、町中に張り巡らされている電柱と電線だろう。確かにどちらも近代以前の日本にはなかったものだし、欧米の主要な都市では景観を損ねるという理由でそれらが規制されている、もしくは地下化されていることも多い。そんな観点から日本でも欧米に習って美しい景観を取り戻そうなんて発想が生まれることもある程度は理解できる。しかしそれが絶対的に素晴らしいことかと言えば、必ずしもそうではないと自分は思う。美しい景観が望ましいという理由には、そこに住んでいる人たちが心地よく暮らす為ということもあるだろうが、美しい景観で外国人観光客をより多く誘致したいという思惑もあるだろう。
 自分が注目するのは後者で、巨大看板や張り巡らされた電柱・電線のある風景も日本らしさであると考えるので、それらを必要以上に撤去することは、場合によっては逆効果になる恐れもあると思える。現に外国人たちはテクノロジーを感じさせる現代的なものと、伝統的な古い価値観の融合・混在に日本的な魅力を感じる人も少なくない。例えば祇園などのような近代化する以前の町並みで統一された地域もそれはそれで日本の魅力なのは間違いないが、浅草のような大正・昭和初期のような近代的なイメージが色濃く残る地域も、新宿のように現代的で雑多な町並みも”日本”を強くイメージさせる場所であることには間違いないだろう。しかも浅草には浅草寺、新宿にも花園神社など近代以前からある建物があり、それらの混在も町の大きな魅力の1つなのだろう。
 
 マツコの知らない世界では、渋谷のスクランブル交差点のビルの壁や屋上に据えられた巨大看板を全て取り去った合成写真と、実際の風景を対比させていたが、巨大看板が全てない写真はかなり無機質で、渋谷の魅力が全く感じられないどこにでもありそうな風景でしかなかった。例えばこれと同じように新宿歌舞伎町から全ての看板が撤去されてしまったら、歌舞伎町の魅力は半減どころか1割にも満たなくなってしまうだろう。個人的には都市部で行われている無電柱化事業にも同様の懸念を感じてしまう。整備され整然としたものにも魅力は当然あるだろうが、雑多でごちゃごちゃとしたものにも人を惹き付ける魅力はある。例えばドン・キホーテがあのようなごちゃごちゃしたテイストの店作りで躍進しているのも同じような理由だろう。必要以上に美化を進めれば逆に個性を薄め、魅力を下げることにもなりかねない。余談ではあるが、今はみなとみらい線開通に伴い廃線となった東横線の高島町-桜木町間の高架下は世界でも有数のグラフィティアートが集まったスポットだった。しかし2008年2月までに全て消されてしまった。真相は分からないが、当時市長だった中田宏氏が実績作りとして、市内の浄化運動の一環で行ったという話で、自分の周りの複数の市民は「桜木町・横浜らしさの一つが無くなった」と嘆き、中田氏を強く批判していた。自分もあの国道16号線沿いの落書きは、無秩序な落書きでもあるがアートでもあり、自分が住む市の名所の一つと感じていた。消されてしまったことに対して、かなり残念だと思っている。
  このような視点で考えれば、日本橋から空が見えないのは確かに残念なことではあるが、しかしその分首都高という東京を東京らしくしている大きな要素が成立していることも確かだし、日本橋の上に首都高が走っている状況が既に半世紀以上続いていると、多くの人々にとってはそれが日本橋の風景として定着しているのに、わざわざ大金をかけてそれを変えるということは得るものあるだろうが、失うものも多いように思う。

 本当に魅力的な景観とは一体どのようなものなのだろうか。個人的には首都高が頭の上を走る景色は東京の象徴なので、地下化する必要はないどころか、東京の魅力を減らすことにもなりかねないと思う。巨大看板や電柱・電線に関しても、例えば拡大しつつある台風や竜巻の被害を軽減する為などの理由なら否定することは出来ないだろうし、新しく開発される町のコンセプトとして導入することは良いかもしれないが、必要以上に”美しい景観”という幻想に捉われて撤去したり、地下化しようとすることは、場合によっては逆効果になることもあると考える。例えば富士山の写真を撮る時に、代表的な撮影スポットである山梨県の新倉山浅間公園で、五重塔や桜という伝統的な日本らしさと共に撮影するのもとても日本的だろうが、雑多に張り巡らされる電線・電柱と共に撮られた富士山の写真も、それはそれでとても日本らしさに溢れていると感じる。

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