府中市のミニストップで頻発する店舗駐車場への無断駐車対策として、店側が用意した自動車のホイールをロックし「はずしてほしかったら4万円ください」などと張り紙をし、店舗駐車場に止めていたことが、第三者によりツイッターに投稿され、その行為の是非などが大きな話題になっている。批判の中には何を根拠に言っているのか分からないが「無断駐車をするのは日本人ではない外国人だろうから、もっとやれ」なんて差別意識丸出しの恥ずかしいものもあるが、そんなあからさまに偏った人は無視するとしても、個人的には店舗側を批判している人々にもあまり賛同できない。何故なら彼らの多くが履き違えた正義感を振りかざしているように見えるからだ。
この件で店側の対応を批判する人々の多くは、朝日新聞も報じているように「やりすぎ」とか「不快」というのが殆どだ。「やりすぎ」という批判はまだ何となくは理解できる。しかし「不快」だというのは批判にすらなっていないように思える。誰かが少しでも「不快」だと感じたら自粛すべきなら、もし私に「不快」だという批判を見るのは「不愉快」だから止めろと言われたら彼らは批判を止めるべきだろう。自分には彼らがそんなことで批判を止めるとは思えない。
確かに店側の対応は見た目の印象が高圧的にも見えるし、決して見た人にとって良い印象を与えるものではない。しかしやりすぎかどうかは、店の立場に立って考えてみれば感じ方が変わるかもしれない。店としては買い物客の為に無料で利用できる駐車場を用意しているが、それには相応の経費も掛かっているはずだ。利用者が無料で駐車できるのは店側が掛かる経費を負担しているからであって、駐車場は費用を負担なしに運営できているわけではない。無料なのは買い物客等の店舗利用者だけであって、店舗側にしてみれば無料なんてことは全くない。だから店側としては買い物客に優先的に駐車場を利用させたいと考えることは多くの人が理解できると思う。ならばなるべく経費をかけずに何とかして無断駐車を防止したいと店舗側が考えるということも想像出来るだろう。しかも出来れば全てのスペースを買い物客に提供したいところ、無断駐車抑止の為にわざわざ1台分のスペースを割くという苦肉の策であるとも思える。
これでも「やりすぎ」と考えるかどうかは個人の自由だし、当然「不快」と感じるかどうかも個人の自由だとも思う。個人的には「やりすぎ」と考えたり「不快」と感じる人はこのミニストップを利用しなければいいだけではないかと思う。これが例えば能動的に選択し難い公立の学校や、行政の運営する施設・イベントに対してならまだそのような批判も理解できるが、この件の対象はいくらでも選択肢があるコンビニである。その店が不快ならば別の店を利用すればいいのにとしか思えない。百歩譲ってコンビニでも、現在のコンビニの公共インフラ的な役割を考慮すれば、たとえば10km四方の範囲に1件しかないような地域で他に選択肢がないなら、利用者が快適に利用する為に苦言を呈さざるを得ない可能性もあるかもとも思えるが、この件で話題になっているのは東京都府中市という、都市部に分類されるような地域のコンビニの話だ。
ツイッターに投稿されている実際に設置された自動車を見れば、景観的に美しくないから「やりすぎ」だとか「不快」なんて主張が行われているのかもとも想像する。何かしら景観に関する規定があれば、そのような批判も肯定できるかもしれないし、それを理由に制限を掛けられるかもしれない。しかしどうやらそのような規定はなさそうだし、それでは結局批判している人々の美的センスという主観だけで他人を批判していることになるだろう。例えば、街中を歩いていて「お前のTシャツはセンスが悪いから街中をその格好で歩くな」と見ず知らずの他人にいきなり言われて「はい、分かりました。気を付けます」などと言いなりになる人がどれほどいるだろうか。自分にはそれと大差ない話のように思える。
要するに、賛同は出来ないが「やりすぎ」という批判には、ある程度倫理観や道徳観的な視点が含まれているようにも思えるが、「不快」なんてのは単に自分の感覚、言い換えれば履き違えた正義感、もっと悪く言えば偽善的な感覚を誇示して優越感を得ることを主体に行われている主張でしかないとさえ思える。
兎に角最近は「不快・迷惑」という個人の感情だけを主な理由にして、止めろとか規制しろなんて主張が大腕を振って歩けてしまっているが、彼らは自分が行っている主張と同種の主張が自分に向けられた時にどのように感じるのだろうか。恐らく彼らは自分の感情を特に優先するような人々だろうから、そんな話を受け入れるはずもないだろうが、それは同時に彼らが過剰に自己中心的だという事を物語る。自分の価値観を他人に押し付けることは極力避けなければ、最終的には自身も誰かの価値観を押し付けられる事態に陥ってしまうだろう。所謂ヘイトスピーチ的な思考が社会の一部に広がりつつあることも、同じような考え方が背景にあるような気がしてならない。