今朝・8/21のMXテレビ・モーニングCROSSでは、コメンテーターの関口舞さんが「Instagramは若者の心の健康に悪影響、イギリスの王立公衆衛生協会が調査」というハフィントンポスト・イギリス版の記事を踏まえ、所謂”SNS疲れ”と呼ばれる状況が拡がっていることを紹介していた。SNS疲れと聞いて自分が想像するのは、フォローしている友人などの、充実した生活をアピールする投稿に対して嫉妬しイライラしたり、または自分は劣っているなどと不安になったりするような状況だった。関口さんもそのような切り口で話を始めていたが、彼女がそれよりも注目していたのは、充実した生活をアピールしている側もアピールすること自体が目的化し、必要以上に見栄を張ることが常態化し、そこまで深刻でなかったとしても、それに集中し過ぎることによって疲弊するような状況だった。彼女はその対処として、インスタグラムなどのSNSは、あくまで「最高の瞬間」の一覧であり、現実の印象が誇張されていると知ること、SNS上での交流や自分像よりも現実をより重視し大事にするべき、ネガティブな思考を持ちやすいなら、落ち込んでいる時はSNSを見ない、ということを主張していた。彼女の主張にはとても共感できる。しかし一方でSNSで疲れを感じるタイプの人は現実世界でも同じような理由で疲れを感じるタイプの人ではないだろうかとも感じた。
まず大前提にSNSとは、自分がフォローしている人の情報しか表示されない仕組みであるにもかかわらず、他人の投稿を見てイライラしたり、さらには難癖を付けるような発言をする人は一体何がしたいのか理解に苦しむ。政治や社会問題についてはある程度自分が望まない情報にも触れる必要性があると思う。しかし個人の趣味性の強い情報では、見てネガティブな気分になるようなタイプの情報を発信する人はフォローしないようにするべきだ。他人の充実を見て自分がこのままでいいのかと不安になってしまうような場合も同様で、イライラしたり不安になったりする情報にわざわざ自分から接する必要性がどこにあるのだろう。しばしば、現実のしがらみがあるからフォローしないわけにはいかない、という主張を耳にするが、イライラするなら現実のしがらみも断ち切るべきだ。その人には他の部分で素晴らしい点があると言うなら、イライラせずにその人の多用な側面として受け止めるべきではないだろうか。個人的にはこういったことを主張するタイプの人は、実際は自ら好んでイライラしたり、不安になりたいタイプの人で、何かしらの問題は抱えているだろうが、それは厳密な意味での”SNS疲れ”には該当しないと思う。
また、他人からの”いいね”などの反応を得る為に、必要以上にいい服、いい生活、見た目の良さを強調するような事態に陥り、それが原因で疲弊してしまうタイプの人は、もしSNSやインターネットがなかったとしても、現実世界でも必要以上に着飾ったり、見栄を張る人だろうと想像する。多くの人は少なからず”他人から良く思われたい”という欲求を持っているはずだ。例えばギャンブルが好きな人の大半は、ギャンブルに勝ったことは嬉しそうに自ら進んで話すが、負けたことは積極的に話さない。車が好きな人も、車を中古で買っていてもわざわざ中古で買ったと積極的にアピールする人は少ない。勿論”安く手に入れた”ことをアピールしたいタイプの人や、そのほうがアピール度の高い車種などの場合は例外だ。誰にでもそのような欲求はあるだろうが、そのような欲求が大きくなりすぎると確かに深刻な問題になるだろう。しかし、それは決してネットやSNSに限った話ではないと思う。誰でも小学校から高校や大学までの長い学生生活の間に、一人くらい極度に見栄を張るタイプの同級生が居た経験があるのではないだろうか。度が過ぎると明らかに誰にでも分かるような嘘をついたりして、周りから冷ややかな目で見られていたなんて場合もあると思う。結局程度には個人差があるのだろうが元々そのようなタイプの人間がSNS上でも同じような状態になっているだけなのだろう。という事はそれは”SNS疲れ”ではなくネットか現実世界かに関係なく起こりえる、”単なる見栄の張りすぎ”なのではないだろうか。
関口さんがSNS疲れという切り口で”単なる見栄の張りすぎ”に触れたのは、人々が主に見栄を張る場所が現実からネット上に移ってきている現状を考えれば、とても理に適っているように思う。しかしそれは決してネット上だけの話ではないのだから、そのようなタイプの人は現実世界でも見栄を張りたがる人なのだろうし、それと同様にネットで人のSNSを自分から見に行ってイライラしたり、不安になったりするタイプの人も、現実世界の人付き合いでも同じような行動をしてしまう恐れのある、コミュニケーション下手なタイプである懸念が強いということも考えておくことも重要だと思う。”SNS疲れ”はネット上だから起こると捉えられない為にも、それについて触れたほうがより的確な主張だったかもしれない。