ツイッター上の差別的なツイートに対する対応がなされず放置されているとして、9/8にツイッター社の日本法人が入居しているビルの前で抗議活動が行われたことを複数のメディアが報じている。抗議活動は歩道に差別的な懸念の強いツイートをプリントアウトした用紙を敷き詰め、それを踏みつけることで反対・抵抗などの意思を示していたようだ。BuzzFeed Japanの記事を見ると、それらのツイートの多くは外人差別、特に在日朝鮮人に向けられた一方的な憎悪を感じさせる内容のようで、差別の中でも特に現在日本だけでなく世界中で深刻な社会問題になっている民族・人種・出身国などによる差別にフォーカスした抗議活動のようだ。
差別の懸念の強いツイートの問題についての考えを述べる前に、まずBuzzFeed Japanが記事で使用している画像、路面に敷き詰められた差別的とされたツイートを撮影した画像に関して、ツイートしたアカウント名にモザイク処理をしていることへの違和感について触れたい。
確かに無用な対立を煽らない為という観点で考えれば、アカウント名にモザイク処理を施していることが絶対的におかしいとは言えないだろう。しかし、それらのツイートは公開されたアカウントで、誰もが見られる状態で公開されたツイートだし、もしかしたら現在ツイートした本人によって削除されている可能性もあるが、ツイートされた時点では誰もがリツイートしたり、コメントを返したりできるような状態だったはずだ。どんなツイートも発言した本人にはそれなりに責任がある。そのようなツイートの責任を感じさせる為にも、実名公開は問題が生じる懸念が強いと判断しても、アカウント名まで隠す必要はないのではないだろうか。自分にはBuzzFeed Japanが配慮し過ぎていて、暗に差別的なツイートをする者を擁護しているようにも思えてくる。白人至上主義を明確に批判しなかった大統領に向けられた非難と同種の懸念が感じられてしまう。勿論考えすぎだという見解があることも分かるし、差別だ差別だと強く批判しすぎると更にそれに対するカウンターが起こり、余計に溝が深まるかもしれないと懸念する考え方も理解できるが、ならばモザイク処理などしなくても済む様なアングルで撮影するべきだったのではないかと個人的には思う。要するに”隠す”という行為が行われることにも、またその影響が出る可能性があるのだから、極力”隠さない”で、もしくは隠さざるを得ないものを”隠している”と意識させずに伝えた方が良いのではないかと感じる。これに関しても”隠している”ことを意識させることにもメリットがあることも理解はしているが、今回の記事の件ではそのメリットよりもデメリットの方を個人的には強く感じてしまった。
今回の件で、BuzzFeed Japanの記事も触れているように、抗議していた在日韓国人3世の女性が、
「死ね」「出て行け」「殺せ」「ゴキブリ」「いなくなれ」……。毎日Twitterの通知が来ると、怖いです。つらいです。苦しいです。
という自身の気持ちを訴えていたようだ。これに対して、「だったらツイッターを辞めればいい」という主張をする者がいたようだが、自分はその感覚は大きな勘違いに基づいていると思う。まず、ツイッターは現在SNSの中でも大きな存在感があり、ある種社会的なインフラのような性格も持ち合わせている状態になっていると思う。同じようなメディア的なインフラにテレビがある。もしテレビで一部の人に向けて「死ね」「出て行け」「殺せ」「ゴキブリ」「いなくなれ」というメッセージが毎日発せられていたとして、「だったらテレビを見なければいい」という話になるだろうか。絶対にならないとしか思えない。また、誰もが利用できる公園で遊んでいたら、「死ね」「出て行け」「殺せ」「ゴキブリ」「いなくなれ」なんて罵倒してくる人に邪魔をされたとする。そんな状況で、「だったら公園で遊ぶのを止めたらいい」と言えるだろうか。若しくは自分がその当事者だったとして、そう言われて「そうですね」と納得できるだろうか。自分は絶対納得できないし、そんなことを言う人の感覚は罵倒してくる人と同じだと感じるだろう。
確かに罵倒から逃れるためにツイッターを見ないようにするというのは、問題解決方法の一つではある。しかし、それは緊急避難的な対処にはなるだろうが、長期的に考えれば何の問題解決にもならない。嫌なら辞めろというのなら、学校でイジメが起きたら、イジメられた側が学校を去るべきだと言っているようなものではないだろうか。「だったらツイッターを辞めればいい」と述べた人は、もし自分の子供がイジメを受けた際に、イジメた側に何のリスクも与えられることがなく、自分の子供が転校を余儀なくされるという不利益を負わされることを、正しい判断だと受け入れることが出来るだろうか。
また、今朝9/11のMXテレビ・モーニングCROSSでもこの件について触れており、今日のコメンテーターの一人だった渋谷ザニー氏は、差別的な発言は適切でないと認めながらも、内心にそのような感情を抱くことまでは規制することは不可能なのだから、あまりに厳しくそれを批判・規制すると、現在アメリカ社会の一部でにある、所謂ポリティカルコレクトネスに対するカウンターで起きる、拒否感の爆発のような状態もなりかねない。だからある程度は仕方がないとして黙認するほうがいいのではないか、というような見解を示していた。確かにザニー氏の言いたいことは分からなくもない。現実路線で考えれば確かに彼の言うとおりだとも思う。しかし、それを認めてしまうことは誰かが言葉の暴力の犠牲になることは仕方がないと言っているようにも思える。暴行されたり虐殺されたりなんてことがないように、暴言ぐらいは我慢しろと言っているようにも思える。確かに物理的な暴力に比べたら暴言はまだマシなのかもしれないが、暴言も精神的な暴力であることには変わりない。場合によっては精神的な暴力を受け続けることの方が物理的な暴力よりもつらい場合だってある。そう考えれば”ある程度は仕方がない”なんて言えるような状況ではないように、自分には思える。また、ポリティカルコレクトネスへのカウンターを恐れて、所謂ガス抜き的にある程度の差別発言を黙認するべきという考え方もあるだろうが、そのような発言に影響されて新たに差別的な思想を持つようになる人の存在も考慮しなくてはならない。
表現の自由が認められているのだから、差別発言をする自由もあるのではないかなんて恐ろしいことを主張する人がいる。表現の自由は確かに我が国では憲法で定められ、認められている権利の一つだが、同様に基本的人権も誰もが認められている権利である。前述のような主張をする人は自由の意味をはき違えている。自由は無秩序に認められるのではない。要するに他人の権利を侵害するようなことまで自由の範疇として認められるようなことは決してない。他人の権利を尊重しないということは、その自分の権利も何かしらの形で侵害されても仕方がないという事になる。もしそうだとすると、差別発言することが自由の範疇で認められるなら、差別かどうかにかかわらず他人の主張を遮る自由もあるなんて判断も可能になりそうだ。それでは結局表現の自由などは実現出来ないのではないか。
最近自分の立場でしか物事を考えられない人が増えている、もしくはそんな人の声ばかりがネット上で大きくなっいるように思う。自分のことしか考えないから声が必要以上に大きくなるのだろうが、全ての人が自分のことしか考えなくなったらどんな社会になるかを少し考えてみて欲しい。