スキップしてメイン コンテンツに移動
 

水原希子さんの問題から考えるコメントの管理について


 サントリーのビール・プレミアムモルツのCMには現在モデルの水原希子さんが出演している。9/7にサントリーがキャンペーンの一環で、プレミアムモルツの公式ツイッターアカウントでキャンペーンに関する投稿をしたところ、水原さんに対する差別が懸念されるようなコメントが多数投稿されるという事態が起こり、大きな波紋を呼んでいる。まず差別が強く懸念される投稿の中で最も多かったのは「日本人を使え」的なニュアンスのコメントだ。これは恐らく水原さんがアメリカ人の父と在日韓国人の母を持つことを念頭に置いて行われている主張なのだろう。ハッキリ言って差別以外の何物でもない。何故なら日本企業のCMには他にも多くの外国人が起用されているし、日本の芸能界では多くの外国人タレント・ハーフタレントが活躍している。何故急に彼女だけが槍玉にあげられたのか不可解としか言いようがない。


 そして次に多かったのが「自分のルーツをごまかすような芸名を使うな」というような趣旨の指摘だ。恐らくこのような発言をする人は、名前でルーツを示さなければならないという適切でない価値観を信じて疑わないのだろう。彼らは日本人=日本民族などの勘違いしているように思えるし、和風の芸名を使用するべきなのは日本国籍の人か日本民族をルーツに持つ人だけ、などというあまりにも前時代的すぎる思考の持ち主のようだ。非日本民族で日本式の名前の人も大勢居るし、和風の名前を持たない日本人も大勢いるのに、そんな人々の存在をどう考えるのか。もっと分かりやすく言えば芸名だけに限定して考えても、アントニオ猪木、チャーリー浜、岡田真澄(敬称略)などのことをどう思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しくて反論する気にすらならない。また、批判はコマーシャルの不出来を指摘しているだけなのに、水原さんの差別問題に論点をずらすななんて主張もあるようだ。全く素っ頓狂は話で、それはそれで差別とは別の問題であるのに、差別的なツイートに関する議論にわざわざそんな話を挟んでくることの方がよっぽど論点ずらしだ。コマーシャルの出来不出来を論じたいなら、それを論じている人同士で議論するべきだ。そしてコマーシャルの出来不出来なら水原さんを槍玉に挙げるのではなく、CMの制作会社やディレクターなどをまず批判するのが筋ではないのか。


 エジプト出身のタレント・フィフィさんがツイッター上で、

偏見がなくなって欲しいと願うなら、彼女の場合は分からないけど、例えば生まれ持った名前で活動する方が素敵だと思う。それを躊躇することこそ偏見って思われちゃうからね。頑張って!

水原さんを応援するとした発言をしている。彼女に悪気がないことは理解出来るが、考えが浅いと思う。まず彼女に言いたいのは、名前を生まれながらに持っている人間などは誰一人としていないことを理解して欲しいということ。名前とは生まれた後に親によって付けられるもので決して生まれ持ったものではない。誰がどんなタイプの名前を好むか、選ぶかについても、少なからず生まれによる影響はあるが、厳密には生まれとは関係ない。日本では中々戸籍上の名前を自分の思いで変える人は少ないし、世界を見てもそのような傾向が支配的だとは思うが、生まれた時に付けられた名前を大事にしている人の方が偉いとか、優れているなんてことは決してない。
 そして更に彼女が使用しているフィフィという名前も芸名なのに、そのことをどう考えているのだろうか。彼女が生まれ持った名前という表現で指し示すものが、所謂実名だと解釈してもまだ矛盾する。恐らく”フィフィは自分のバックグラウンドであるエジプト的な名前で自分の本名と関連があるからOK、水原さんも日本式の名前じゃなくて、アメリカ人の父から受け継いだ名前を使えば?”というような発想なのだろう。この考えが絶対的におかしいとか間違っているとは言わないが、そんなのはフィフィさんが好む線引きであって、自分にはそれで水原さんが勇気付けられるとは到底思えない。勿論水原さんがフィフィさんの発言を好意的に受け入れる可能性がないわけではないだろうが、自分にはフィフィさんの発言は整合性に欠けるように感じる。少なくとも自分が水原さんの立場なら確実にそう感じる。

 ハフポストではこの件についてサントリーやTwitterにもコメントを依頼しており、記事によるとサントリーはこの件について、「今回の当社の投稿に対して、Twitter上でキャンペーンの趣旨と異なるコメントが多く付いていることを残念に思っております」とコメントしたようだ。一方Twitterは、個別のアカウントに関するケースのため、この件への対応措置については回答できないとしたようだが、「Twitterは世界中のすべての方々がそれぞれの視点や経験からの意見や知識、情報、また作品などを自由に表現できる場でありたいと考えています。そのために存在するTwitterのルールにのっとり、すでに毎日大量のツイートに対処を行っています。先日の抗議活動を含め、ヘイトスピーチに関してさまざまなご意見を頂戴しています。100%ご満足いただく結果をもたらすことはなかなか困難でありますが、最大限の努力のもとでTwitterを改良していこうとさまざまな観点から見直しを始めています」というコメントを示したようだ。
 先日の抗議活動とは、9/11の投稿で取り上げた9/8にTwitter社の前で行われた、人種・民族差別に関するツイートが放置されていることに対する抗議活動のことだ。個人的にはこの時の件でも、今回も感じているのは、Twitterが対策をしていないと抗議されいるのではなく、対策が充分ではないと指摘・抗議されているのに、ヘイトスピーチ対策として「すでに毎日大量のツイートに対処を行っている」とコメントするということは、対策は決して足りなくないと言っているように見えてしまう。Twitterが恐らくそう思っていないだろうことは、前述のコメントの最後で「見直しを始めています」としていることから明らかだし、確かに表現の自由との兼ね合いでどこで線を引くのか、ヘイトスピーチに該当するかどうかの判断を誰がするのかは相当デリケートで、対処が難しい問題であることも理解は出来る。しかしそれでも現状、差別の疑いが強いツイートが大量に放置されていることを考えれば「すでに毎日大量のツイートに対処を行っている」と言われても、「Twitterも頑張っているし仕方ないよね」とは全く思えない。悪く言えば、Twitterはヘイト的なツイートを積極的に肯定はしていないだろうが、黙認しているとさえ思えてしまう。
 
 少し前にYahooニュースのコメント欄がヘイトスピーチ的なコメントで溢れていると話題になっていた。Yahooニュースのコメント欄には「※コメントは個人の見解であり、記事提供社とは関係ありません」などの但し書きがある。要するにコメントについては書いた人の責任で、Yahooや記事を提供した新聞社などはその責任を負いませんということだ。確かに主たる責任の所在は間違いはないとは思うが、広くコメントを集めているのだから少なくともYahooには、その場の秩序を維持する責任があるのではないだろうか。
 自分は経営学部卒にもかかわらず怠惰な学生だったので、あまり経済学の知識があるとは言えないが、資本主義の黎明期にある有力な学者が資本主義経済では「神の見えざる手」が働くのだから、政治などはできるだけ介入するべきではないという主張をしていたそうだ。しかし世界恐慌が起きて以来その話の信憑性が疑われ始め、今では少なからず何かしらの形で秩序を維持した方が適切とされているし、政治などが秩序維持の為に経済に介入している現在でも、寧ろバランスはどんどん崩れているようにさえ思える(適切な介入がされているかどうかも絡んだ話ではある)。
 インターネットの普及で、今までテレビ局や新聞社の主導で行われていた世論の形成に、誰もがより自由に、そしてお金をかけずに積極的参加ができるようになった。しかしネット社会はまだまだ成熟期とは言えないような状況であることもまた事実だ。嘘の情報をばら撒こうが、注目さえ集めれば大きな収入が得られてしまうことや、少人数で大人数のように振舞うことが出来てしまうこと、実社会より身元が判明し難いことから無責任な発言を躊躇しない人が一定数いることなどがそう思える要因だ。そのような人々はよく「表現の自由」などと声高に叫ぶが、自由とは責任を負うことで認められるものだという事を無視しているとしか思えない。これまではネット上の言論も「神の見えざる手」に託すべきという考えが支配的だったかもしれないし、これからもそれは変わらないかもしれない。しかしTwitterにしろ、Yahooニュースにしろ今の状態でヘイトで溢れたコメント欄・ツイートを放置しておけば、サイトやサービス・企業自体の価値を結局低下させてしまうように思う。2000年代に肥大化した2chなどは既にそのような状態に陥っていると考える。
 ヘイト・差別・偏見に満ちたコメントに何も感じないのはそんな主張をしている人達だけだろうし、そんな人が日本の、若しくは世界の大半を占めているとは断じて思えない。そんな多くの人々はヘイト的なコメントで溢れたサイト・サービスを見たい・利用したいと思わなくなると想像する。今は対抗馬になる存在がまだないだけで、対抗馬が出てくれば緩やかにかもしれないがそれらは衰退が進むと思う。
 
 もしこれらのサービス・サイトがこれからもスタンダードでありたいと望んでいるなら「神の見えざる手」に運を任せるのではなく、今以上に積極的な対策を施す必要があるように自分には思える。勿論難しい判断を迫られることは明白だが、巨大なサイト・サービスを管理運営するなら避けては通れない道なのではないだろうか。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。