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宿題に対する価値観の差


 8月の終わりに夏休みの宿題としての利用を想定した商品がネット上での個人間売買仲介サービス・メルカリに多数出品されているという事が話題になり、自分もそれについての考えをこのブログで書いた。元々はそのような商品は倫理的に問題があるのではないかということが各所で論じられていたように思うが、徐々に論点がシフトし、最近は”夏休みの宿題”、というか夏休みに限らず宿題の必要性に注目が集まっているように感じる。以前の投稿では、夏休みの宿題には合理的な部分もあるし、一方で非合理的な部分もあると考え、一概に良いとも悪いとも言い難く、(宿題のあるなしを含めて)多様な学校の中から生徒自身や親の考え方に合わせて選ぶことが出来たらよいのではないかという自分の考えを書いた。
 ハフポストは9/8にフランス版の記事「フランスが宿題めぐる新政策を実施へ。フィンランドや韓国との比較から宿題の存在意義を探る」を掲載した。フランスで教育相が提案した"宿題を学校で"プログラムの開始に関する記事だが、宿題に関する各地域の価値観の違いについてフランス人の目線で書かれた非常に興味深い記事だった。

 
 記事ではフィンランドと韓国を宿題の量が少ない、若しくは宿題自体がない地域として紹介しているが、両者が宿題をあまり課さないという状況に至った理由が全く正反対であることに注目している。フィンランドでは子供には自由時間が必要であるという考え方がベースにあり、その考えにそぐわない為宿題があまり課されないが、韓国では多くの生徒が塾通いをする為、宿題に割く時間が少なく、その為に学校が課す宿題の量が少ないという状況になっているということらしい。
 次にアメリカとフランスの宿題に関する事情に触れている。記事で言及されている状況は必ずしもそれらの国の全ての学校にあてはまる状況ではないようだが、両国ともに、日本で主流の所謂漢字ドリルや計算問題を解くようなタイプの宿題ではなく、好きな本を読むとか、あるテーマについて調べるというようなタイプの宿題が重視されているとしている。恐らく記述式問題の宿題を大量に課すようなことは時代錯誤であるという認識がベースにあるのだろう。
 しかし実際に筆者が記事で訴えたいことは宿題の量とか質とかいった話ではなく、"宿題を学校で"プログラムの開始に関してであり、子供は学校で勉強する際は誰もが先生に質問したり助けを求めることが出来るが、宿題というのは基本的に家でやるもので、子供の宿題を手伝う親も居れば関心を示さない親もいる。このように考えると宿題とは不平等なものではないかということのようだ。しかも話はそれで終わりではなく、では宿題を減らしたりなくしたりすれば問題は解決するのかという点で話は続く。子供達には自主的に何かを学ぶ必要があり、そのきっかけとして宿題は必要である為、宿題を減らしたりなくしたりすることは絶対的に好ましい問題解決とは言えず、必要なのは宿題をする環境の格差を無くすことで、その為には”学校で宿題が出来る”環境があればいいのではないかということらしい。記事は全体通してとても興味深く、宿題の在り方についてとても考えさせられる。

 自分は小中学生の頃、テスト勉強というものに大きな疑問を持っていた。テストとは何か、と聞かれたら多くの人が、学んだことを本当に理解しているか、どの程度習熟したかを調べる為に行う、いわば習熟度を測るものと答えると思う。それを考えると自分には、テスト前にテストの為に勉強するのはテストの本質と矛盾する行為だ、と思えた。多くの人はこの考え方を怠け者の屁理屈と捉えるかもしれないが、それはテストの為に勉強するという意識が染み付いてしまった人の意見だと自分は思う。本来勉強というのはテストの為にするのではなく、生活に役立てる為や、自分の純粋な興味を満たす為に行うものだと自分は考える。テストの為に勉強するのであれば、テストが終わればその殆どは役立たずになるだろう。だから本来テスト勉強なんてのは必要なく、テストで良い結果が出なかったときに初めて不足を補う為の勉強をするという事が必要なのだと思う。その為には不足を補いたいとか、解けなくて悔しいと思えるようなテストが必要だし、そう感じさせるような学び方が必要なのだと思う。逆に言えば、所謂勉強が出来るといわれるような人たちは、個人差・程度の差はあるだろうが、それを学生自体に実践できた、現在の学校教育が肌に合っていたタイプの人々なのだろう。しかし自分はそんなタイプの人々も単に要領がいいだけなどとは全く思わないし、逆にそれが出来ない人が劣っているとも思わない。ただ現在の日本では前者ばかりが重宝がられるという状況があり、それには何となく疑問を感じる。ある意味では、今の学校教育に適応できたか否かで人間の価値が測られてしまうような構造があるようにも思える。
 
 宿題に関しても同様で、漢字ドリルや計算問題集などを解くことを宿題として課され、それを楽しいと感じる子供もいるだろうが、それを苦痛に感じる子供もいるだろう。また一人ではそれに向き合えないが、親や兄弟、友達などと一緒なら楽しむことが出来る子供もいるだろう。またそのような記述式の宿題ではなく、何か調べものを課されることを楽しいと感じる子供もいる。勿論それに関しても誰かの助けがあれば楽しさを見出せる子もいれば、一人でもくもくと打ち込むのが好きな子もいる。宿題の方式、内容に絶対的な正解なんてないというのが自分の考えだ。
 勿論それぞれの長所を伸ばすことは大事なことだが、同様に短所を補うこともまた必要だろうから、ある程度は自分の好きではないタイプの宿題や、好きではない状況で宿題に向き合う必要もあるだろう。しかしテストの話と同様に、あるタイプの宿題が重視され過ぎたり、宿題は一人でもくもくとこなすものという認識が現在強すぎることにはやや違和感を感じる。
 
 自分はハフポストの記事の筆者やフランスの教育相が言うように、親が宿題を手伝ってくれる子供と手伝ってもらえない子供がいることは不公平だ、と強く言えるとは思わない。手伝ってもらえないことで能力を伸ばす子もいるだろうし、手伝ってもらったことで自ら考える能力をスポイルされることもあるかもしれないと考えるからだ。ただ、筆者が言うように手助けが欲しいなら、生徒が手助けを求められる環境があることは望ましいと思う。
 要するに出来る限り親・生徒がそれぞれの考え・特性に合わせて最善の環境を得られるチャンスがあることは重要なことだと思う。そのような環境があれば、画一的な考え方に縛られず多様性を認める思考が身に付きやすくなり、社会にある偏りを更に減らせるのではないかとも思う。

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