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表現に対する過剰反応の副作用


 フジテレビ・とんねるずのみなさんのおかげでしたが前身番組と合わせて30周年になることを記念した特別番組を9/28に放送し、かつて人気キャラクターだった保毛尾田保毛男という同性愛者の男性キャラクターを復活させたことに対して、LGBT関連団体などが「性的少数者への差別や偏見を助長し、特に学校で子どもたちが危険にさらされる可能性がある」とフジテレビなどに対して謝罪を求める抗議文を出したということを、NHKなどが報じている。NHKの記事の中では「”ホモ”という言葉自体が蔑称であると言われている今、なぜ放送するのか」という、この種の問題に詳しいとされる大学教授のコメントを紹介している。フジテレビは9/29に記者会見を開き、社長が陳謝したそうだ。


 このキャラクターが人気だった頃、自分は中学生ぐらいだった。友達がよく真似をしていたのを覚えている。といっても恐らく彼にも自分にも、周りの友達にも差別的な意識はなかったし、それが学校などで問題になったという記憶もない。確かに当時は同性愛者の存在を社会的に認めようという風潮も現在に比べて確実に低かったから、もしかしたら自分の学校にも同性愛者の同級生などがいたかもしれないが、彼らがそれを明確に出来るような空気は一切なかったし、自分達に差別的な意識がなく問題がなかったと感じていた一方で、誰かが不快に感じていたり、そのようなことでからかわれることになるかもしれないと怯えていた同級生がもしかしたら居たのかもしれないと今は思える。そのように考えれば、今回LGBT関連団体などが示した懸念は一理あると思えるし、フジテレビの番組制作に対する姿勢はある意味では思慮に欠けていたと言えると思う。
 
 同性愛者に対する偏見を持っている者は当時に比べれば減ってはいるものの、まだまだ決して少なくなったとは言えないような状況だということも分かるものの、その一方で、同性愛に限らずデブ、ハゲ、ブサイクなども同じように当時から、そして現在も笑いのネタにすることはあるし、当時から所謂オカマという事を活かして芸能活動をする人々もいたし、デブキャラ・ブサイクキャラ・ハゲキャラ・貧乏キャラなんてネガティブな特性を逆手にとって人気を博すようなタレントも一定数いた。彼らのそのような点に、強めに指摘・時には一見罵倒にも見えるようなやり取りでコンテンツを作るということは、当時も今も決して珍しいことではない。
 何が言いたいのかと言えば、懸念はある程度理解出来るが、”タブー化”することも別の問題を引き起こす恐れがあるのではないかという事だ。勿論多くの人が悪意に満ちていると感じるような表現や、特定の誰かを徹底的に貶めるような表現は同性愛に関してだけでなく、どんなコンプレックスに対しても許されるべきでないことは言うまでもない。しかし記事で紹介されている”ホモ”という言葉が果たしてそれだけで蔑称・差別的な言葉かどうかについて自分は疑問を感じるし、また子どもへの影響を特に懸念しているようだが、子どもが真似るという意味では他のコンプレックスに対しても同じで、それがテレビで流すなという主張の理由になるならば、そもそもバラエティ番組なんて成立しないし、映画やドラマでだって意図的に差別的な表現をする場合もあるから、殆どのテレビ番組が適切でないと言えてしまうように思う。
 
 福島の学校で授業中に注意された生徒が、教員を蹴りつける様子が同級生によって撮影され、生徒が逮捕されるという事件が起き、その動画を多くのニュース・ワイドショーが放映した。恐らくそれを見た人の多くは酷いと思うだろうが、中には「真似して俺もやってやろう」と思う子どももいるかもしれない。だとしたら”子どもが真似するからこの事件の動画をテレビで流すな”という事になるのではないか。しかし生々しい動画が放送されることで、多くの人がこのような酷い事態にはなんらかの対処が必要だと、問題性を強く感じることが出来るのも事実で、それを重視するからテレビで放送されるのだろう。そしてもし万が一この動画は不適切だからテレビで放送しないという事になったとしても、ネットにアクセスすれば誰でも、しかもテレビでは自主的に行っているボカシのない映像で見られるわけで、テレビに映さないことで得られる効果は限定的だとも言えそうだ。特に子どもへの影響を考えるなら、現在の子ども達はテレビよりネットの方を身近に感じる割合も決して低くないので、大人たちが考える以上にテレビでの表現自粛の効果は限定的だと思える。
 
 要するに表現の過剰なタブー化、特に最近顕著すぎるテレビへの批判は臭いものに蓋をしているだけで、何かの問題解決に繋がっているとは思えない。勿論面白くないとか、不快感を表明するのは自由だと思うが、それを理由にタブー視を強制しようとするのはやりすぎ、自己満足の範疇から出ない行為だとも思える。特に子どもへの影響を懸念するなら、前述のようにテレビだけを規制しても大きな意味はないように思えるし、表現を過剰に規制するよりも、適切な判断力を付けられるように、大人が積極的に子どもとコミュニケーションをとることの方がよっぽど重要なのではないかと考える。個人的には隠すより見せて論じる方がよっぽど効果的だと思える。
 そして同性愛に関して茶化すことに強い懸念を感じてしまうということは、ある意味では自分達の権利を守ることにも繋がるが、一方で自分達は特殊であると自ら言っているようでもある。現在の状況を考えれば、懸念を感じて不快だとか怖いだとか感じてしまう人の思いも理解できる。しかし、今回の抗議文が過剰かどうかは分からないが、必要以上に懸念を示せば、その分同性愛が一般化することも同時に遠のくようにも思う。差別は許されるべきではないが、冗談にすることを少しも許さないような過敏さを持った人々に親近感を感じられる人は少ないとも自分は思う。

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