ベストエフォートという言葉がある。ベストは最良、エフォートは努力などに当る単語で、”最高に努力が実った状態”のようなニュアンスだと自分は解釈している。自分がこの言葉を最初に見かけたのは、90年代後半の最初期のインターネット常時接続回線・ADSL普及期の広告だ。インターネット接続回線の宣伝で、今ではあまりベストエフォートという表現をあまり見かけなくなった。最近では率直に”最大○○Mbps”というような表現が多い。あくまで自分の感覚だが、当時の売り文句は分かりやすくいえば、自動車のカタログ燃費みたいなもので、例えばベストエフォート12Mbpsという売り文句があっても、それは理論的な最大値であって実際にはその60%程度、良くても80%程度が実質的に利用者に提供される回線速度であり、売り文句の最大値、若しくはそれに限りなく近い回線速度が出ることはなかったように記憶している。恐らくベストエフォートという当時はあまり耳慣れない表現で、あたかも理論上の最大値が出るかのような広告表現をしたかったのだろうと想像する。
何故ベストエフォートという言葉を思い出したのかと言えば、それは今が衆院選の期間中だからだ。各政党・政治家・候補者の演説や公約を見ていると、それらはまさしくベストエフォートという枕詞を付けるべきだと思えてしまう。経済・外交・社会福祉・原発・災害対策など、どれについても美味しい話が並べられ、自身に都合の悪い話にはふれず、与党系の勢力はこれまでの成果については声高に主張するが、上手くいかなかった政策については触れない。野党勢力は政権批判を強めはするが、自分達がもし政権をとったらどうするかについての具体的な話にはあまり触れない。このような印象については感じ方にそれぞれ個人差があるだろうし、どこかの政党や誰か贔屓の政治家がいる人にとっては、その政党や政治家だけはそんなことはないと感じるかもしれない。しかし、旧民主政権が政権に付く前に掲げていたことの多くを実現できなかったことも事実だし、安倍政権にも待機児童解消やデフレ解消など、当初の予定通り実現できていない重要な政策があることは事実だ。
刻々と国内・国外の情勢は変化しているのだから、選挙前に掲げていた公約に実現できないものがあっても仕方がないということは理解出来る。ただ、自分の目には与党も野党も政治からはざるのように目の粗い大風呂敷を広げすぎるように見える。そんな印象からベストエフォート、要するに公約なんてのは全部が実現するはずがない理想論・夢物語、悪く言えば、選挙の時だけ票目当てに掲げる単なる建前、有権者を騙して票だけ集められればあとは野となれ山となれというような代物でしかないようにさえ思えてしまう。
しかしこのような思いはこれまで自分が成人してからの期間で、今回の選挙戦で最も強く感じてはいるものの、これまでもそうではない姿勢の政党・政治家が政権を担ったと感じたことはない。そんな政権選択をしてきたのは有権者だし、ということは逆に言えば、誰がやろうが結果は同じなのかもしれない絶望的な性質なのが日本人、若しくは全ての人間なのかもとも思えてくる。
しかし自分とは全く正反対に、これまで好ましいと思える政権の方が多かったと感じている人も日本人の中にはいるかもしれない。そういう人は私が好ましいと感じる状況になれば、今の自分と同じような感覚に陥るかもしれない。要するに多種多様な考え方の人が存在する限り、全ての人が充分に満足できる政策が行われたり、充分に満足できる社会が実現されることはないのだろう。そんなものの実現を目指すというのは、良く言えば崇高な目標と言えるだろうが、否定的に表現すれば実現するはずがない理想論・夢物語ということになりそうだ。
そのように捉えれば政党・政治家が選挙戦で掲げる公約も、実現するはずがない理想論・夢物語であり、崇高な目標なのだから、そのような訴えを彼らがすることを全て否定的に捉えるのも適切ではないのかもしれない。ただ、全ての人が充分に満足できる社会が実際には実現不可能だったとしても、それに出来る限り近づく努力は必要で、その為には具体的な方策・方針が示されるべきなのではないかとも思う。そしてどの党が真剣に理想に近づく努力をしているのか、誰が票目当てで建前を並べているだけなのかを、私達は目を凝らし、自らの頭を使って考えなくてはならない。
あくまで個人的な見解だが、自らの勢力に有利なタイミングだけを優先し、これまで全く議論されていなかった話を理由に選挙に踏み切った人やその勢力、これまで訴えていた重要性の高い方針を選挙を機に正反対に覆してしまうような人や彼らを取り込んだ勢力は、その他の勢力よりも圧倒的に信頼感に欠けると思えるため、その他でいくら美味しい話をされても全く信用する気にはなれない。