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ラスベガス銃乱射事件から考える核問題


 10/1にアメリカ・ラスベガスで銃乱射・無差別殺人事件が発生し、50人以上が死亡する事態が起こった。イスラム過激派らはこの事件に対しても後付で犯行声明を出したようだが、今のところは事件と過激主義を結びつけるような根拠は明らかになっておらず、各メディアもテロとは報じていない。しかし歌手のレディ・ガガさんなどはツイッターなどで「This is terrorism plain and simple(これは単純明快に言ってテロリズムだ)」と、民族過激主義が背景にあったかどうかに関係なくテロではないのかと指摘している。どうもこの20年くらいの間、テロ=政治的・宗教的・民族的過激主義を背景にした破壊行為というイメージで語られ、9・11以降は特にイスラム過激主義による行為を主に指す言葉になってしまっているように自分は感じる。個人的には8月に起きた白人至上主義者による反対派への自動車を使用した無差別殺傷事件も充分にテロ事件だと思うし、今回の事件についても、まだまだ犯行が行われるに至った背景は明確化されてはいないが、テロ事件だと思う。ヨーロッパ・中東などで頻発しているイスラム過激派による無差別殺人・爆破事件などは確実にテロ事件だと思うが、テロリズムという言葉をイスラム過激派による犯行にしか使わないことは、イスラム教徒全体に不利益を及ぼす恐れがあると感じられる為、個人的には差別的であるとも感じる。

 
 今回の事件についてトランプ大統領も当然コメントを示している。このような銃乱射事件が起こる度に銃規制が検討されるが、憲法で国民の銃所持を認めていることなどもあり、これまでも対策は全く進んでいない。NRA(全米ライフル協会)の支持を受けているトランプ氏は容疑者を指して”悪魔”とか”頭のおかしい”という表現で批判したものの、銃規制については当初触れなかった(今日・10/6、銃の殺傷力を高める改造パーツの規制を検討すると発表したようだ)。メディアの報道によれば、彼は銃規制よりもこのような犯罪が起きないようにメンタルヘルス対策を強化することが必要という姿勢らしい。
 このようなトランプ氏の姿勢を目の当たりにして、自分がまず感じたのは、本当に容疑者がメンタルヘルスに問題があったかどうかは別にしても、トランプ氏は悪魔のような人物や頭のおかしい人物が、簡単にそして大量に人を殺傷できてしまうような銃を、大量にそして簡単に手に入れられてしまう状況に危険性を感じないのはどうしてか、ということだ。
 
 アメリカで銃規制が進まない理由は憲法の規定とは別に、抑止論的な考え方もあるようで、トランプ氏などがヨーロッパで起こるテロ事件について、「市民が銃を持っていればテロリストに反撃して被害を最小限に出来た」などとコメントする場面をこれまでに複数回目にしてきた。しかし、今回の事件で被害にあったライブ会場の人々の多くが銃を所持していたとしても、流石にライフルを持ってくる人はいなかっただろうし、ホテルの上から連射可能な銃で撃たれたことを考えれば反撃など出来なかっただろう。そして銃所持が認められていても全く抑止になっていないこともかなり明確になったと自分は思う。
 その一方で、これまで長い間銃所持が認められており、州によってはとても簡単に日用品のように手に入れられる状況があるようでは、規制が実現しても誰かがまだ銃を隠し持っている恐れを多くの人が感じるような状況、簡単に言えば疑心暗鬼に陥る為、銃を手放したくないと感じる人も多いだろうから、規制実現は容易ではないということも理解は出来る。
 
 同じような話が核拡散・核廃絶に関しても言えるのではないだろうか。周辺国・対立する勢力が核武装していれば、自分達も核武装したいと考える国はなくならない。そして核を廃絶・廃棄するとしても、どこかの国が条約に反し隠し持つ恐れは絶対ないとは言えない。現在の北朝鮮問題が如実にそれを物語っている。そしてそんな風に考えている人たちが「核は使った時点でその国が終わってしまうから、使われる恐れは低く、所有国の間に均衡した関係が保たれる」という抑止論を用いて核保有を肯定したり容認したりしようとする。しかし今回のラスベガスの事件で犯人が乱射後に自殺したように、核を使用する権限を持った指導者などが自暴自棄になれば、国の終わりなどを気にせずに核を使用してしまう恐れが絶対ないなんて言い切れない。
 今日はノーベル平和賞が核廃絶を推進する団体へ送られるという発表があったが、結局米露中などの大国が真剣にならない限り、核廃絶は夢物語だろう。しかし自国内の銃規制を実現できないような世界最大の核保有国が、核廃絶に同意したり、主体的に核廃絶を主導するようになるのはかなり遠い未来のように思えてしまう。

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