ハフポストの記事によると、先日の投稿で触れたダブのボディウォッシュに関するWeb広告での表現が人種差別的だと批判されている件に関連して、広告でモデルを務めた黒人女性が「私は被害者ではない」とか「ダブのチームとの仕事はとても前向きなものだった」とか「(ダブは)謝罪するだけでなく、制作したクリエイティブの意図や、明らかに黒人女性である私をキャンペーンの”顔”として迎えるという判断をしたということをもっと主張しても良かったのに」とダブを擁護する姿勢を示したことを紹介している。そして記事の最後では、彼女に直接取材したイギリス・ガーディアン紙に寄せた彼女の
私は、誤解されたキャンペーンが生んだ声なき被害者ではない。私は強いし、私は美しい、私はこれからも、決して削除されない。
という手記で締めくくられている。
ダブの件について最初に触れた投稿や、同性愛に関連する表現についての反応に関しての投稿、コロンブスデーに関する投稿などでも触れたが、ある表現が差別に該当するかどうかは絶対的なものではなく、誰もが差別と感じてしまうような露骨な表現もあるが、殆どは周囲がそれを冗談や風刺などと受け止められるか、差別と感じてしまうかによっても評価が変わる相対的なものだと自分は思っている。以前の投稿でも示したように、自分はダブの広告については差別的と指摘を受けても仕方がないと考えているが、出演したモデルの女性のように、あの広告について差別と感じないことを、特に被差別側の人間の感覚としてなら、その感覚を否定するつもりはない。
世の中には差別は断固として認められないと強行に感じるあまり、モデルを務めた黒人の女性を人種差別に加担した裏切り者だと批判するような人もいるのだろう。確かに彼女がある程度有名なタレントなどであれば、自身の出演する媒体・作品を主体的に選べるだろうから、そのような批判を受けることも仕方がないとも思えるが、芸能関連の仕事において、多くの場合出演者は立場的に出演媒体や作品を主体的に選べるような環境にあるとは思えない。要するに生活の為、若しくは今後の活動への影響を考慮すれば、仕事を選んでいる余裕があったかどうかも分からないのに、そのような批判を浴びせるのは酷な仕打ちではないだろうか。
自分は彼女が率直にダブの広告に対してクリエイティビティを感じたと信じたいが、そのような批判をかわすことを念頭において、冒頭で紹介した記事で示しているような姿勢を示さざるを得なかったのかもしれないとも想像する。また記事の最後で取り上げられた彼女の手記の最後の言葉「私は削除されない」から想像すると、彼女はあの広告に出演したことを実際に前向きに捉え、自身のキャリアのプラス要素として感じており、あの広告が否定的な視点で評価される状況を、本当に好ましく感じていないのかもしれないとも思える。
彼女はあの広告に差別ではなくクリエイティビティを感じているようだが、世の中の反応を見ているとあの広告を差別的だと感じる人も決して少なくない。彼女自身は黒人代表としてでなく一人の女性として出演したという意識が強いのだろうが、広告を見る側はある黒人の女性という受け止めで見た人が多い、これがそれぞれの印象の差になっているのだと思う。出演した彼女を一人の人間として捉え、出演した一人の女性の感覚として、彼女の主張を尊重することは重要なことだと思う。しかし一方で、体用洗剤の広告で使用前のイメージとして黒人女性、使用後のイメージとして白人女性を用いるという表現では、黒人=汚い・白人=きれいと言っていると思われても仕方がないとも感じる。
確かに黒と白という色の単純な印象だけを考えれば、黒が汚いかどうかは別としても白の方がきれいなイメージが強いと多くの人が思う。しかし、人種差別、特に黒人など有色人種への差別の懸念が決して少なくない世界的な社会情勢、それについて深刻な問題も少なくないことを考慮すれば、それを黒人と白人に置き換えて表現するのは、たとえ差別的な意識がなかったとしても配慮に欠けていると言わざるを得ない。
このような観点から、モデルの女性が差別を感じないと主張することや、彼女の心情を否定はしないが、自分は彼女の主張に賛同することは出来ない。そして、彼女の言うようにダブの広告に表現手法としてのクリエイティビティはあるという考え方もあるとは思うものの、同時に人種間格差に対する配慮のなさ、無頓着さもあると感じる。そんな理由であの広告が取り下げられるべきとまでは思わないものの、評価する気にはなれないし、批判を受けても仕方がないと感じてしまう。