スキップしてメイン コンテンツに移動
 

SNSに思いやりはあるのか


 ハフポストが「SNSに思いやりって、ありますか?Instagramが”愛”のアートウォールから目指すもの」という記事を掲載している。今では誰もが知る写真を軸にしたSNS・Instagramが東京・青山に”#思いやりを言葉に(#KindComments)”をテーマにしたアートウォールを期間限定で公開したことや、このキャンペーンの真意に関する同社の責任者へのインタビューなどを紹介する内容だ。キャンペーンの真意は多くの人が想像するように、ネットいじめやヘイトスピーチ的な投稿に関する問題提起であり、ポジティブな投稿にしろネガティブな投稿にしろ、SNSではどちらも連鎖する傾向があるので、ネガティブな投稿ではなくポジティブな投稿を推進したいという思惑のようだ。

 
 記事の見出しになっている「SNSに思いやりって、ありますか?」ということについて考えてみると、自分の感覚では、SNSであっても相手の顔が見えていれば多くの人が相手に思いやりを持って接するだろうし、SNS上だけでの付き合いだったり、繋がりの薄い誰かに対しては相手を思いやらない人の割合が増えるように思う。これはSNS上やネット上だけに言えるような話ではなく、ネット普及以前も同じような傾向があったと思う。小売業界で働いていた時、何度かクレーム処理を担当する場面があったが、常連とは言えないような付き合いの薄い客程無理を言ったり過激な要求をしてきたりした。また電話ではこちらを激しく罵倒してくるのに、謝罪に出向いたり、店に来店してもらったりするなど、実際に顔を合わせた際にも同様な態度に出る客は稀だった。要するに相手との関係性の深さや顔が見えているかどうかなどで、「思いやり」が発揮されるかどうかの傾向は大きく変わってくると自分は考える。それはSNSだろうが実社会だろうが大差はないことだろう。
 
 自分が最初に参加したSNSは、というか当時はSNSという言葉がまだなかったが、ネット接続用のモデムを標準搭載した初のゲーム機、セガ・ドリームキャストのユーザー向けに作られたガブリというサイトだった。当時は日記サイトというネーミングでサービスを行っていたように記憶している。その後ミクシィが流行り始めそちらに移行した。そして現在最も普及しているSNS・ツイッターやFacebookがその後登場し、そちらを利用し始めた。最初に参加したガブリはハンドルネームでの利用が主流で、まだまだネットの普及率が低かったこともあり、実生活では関りの薄い・又は全く面識のないユーザー間でのコミュニケーションが主だった。その後のミクシィやFacebookは実名利用が主流で、今はネット上だけの関係にも多く利用されているが、当初は実生活での友達や友達とは言えない程度の知り合いの間のコミュニケーションを補完し、似たような趣味・趣向の話題から交流を深める為のツールだったと自分は思っている。要するに自分にとってSNSとは実社会を拡張する為のツールで、そこでのコミュニケーションは顔を知っている同士のコミュニケーションが多く、必然的に思いやりをもって接したり、接せられたりすることが多かった。だから自分にとっては”SNSに思いやりはある”というのが実感だ。
 一方で自分はあまり積極的に利用していなかったが、最近名称が5chに変わったということで話題の掲示板サイト・2ちゃんねるは、匿名利用に特化したコミュニケーションサイトだ。厳密にはSNSではないが00年代にはコミュニケーションサイトとしても隆盛を誇った。現在は同サイトを利用していた層がツイッターにどんどん移行しているように感じる。自分が2ちゃんねるを積極利用しなかった理由は、匿名ということを背景に他人を罵倒するような投稿も多く、そんな状況に不快感を感じたからだ。2ちゃんねるを積極利用していた友人が「2chを使っていると性格が悪くなると思う」と自ら言っていたのをよく覚えている。自分はツイッターもミクシィやFacebookのように実名で実社会での繋がりを重視して使っていたので他のSNSと同じような状況だったが、たまにトレンドワードなどで検索すると、2ちゃんねると同じように他人を罵倒するような投稿が多く表示されたりもするし、現在はツイッターの利用はあまりしなくなってしまった。要するに場合によっては”SNSに思いやりはない”こともあるとも思う。
 
 先進7ヶ国首脳会議・G7は、G20も開催されていることもあり、実務的には必要性が最早薄くなっているという話がある。しかし各国首脳が実際に顔を揃えること自体に意味があるという話もある。自分も後者はとても大事で、相手に対して思いやりをもって接する為には顔を合わせることが最も重要で、それが国家間の摩擦を和らげることにも繋がると考える。SNSで顔が見えないコミュニケーションを主にしていれば思いやりをもつことを忘れがちになるだろうし、SNSでも顔が見える・人物像が想像出来るようなコミュニケーションをしていれば思いやりをもって相手に接する場面が増えるだろう。結局どれだけ通信技術が発達しようが、人間に感情というものがある限り対面でのコミュニケーションが最も重要であることは変わらないのだと思う。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。