さまぁーずの神ギ問という番組をフジテレビが放送している。元は深夜の30分番組としてはじまったが、何回かのゴールデン特番を放送し、日曜の昼に移転、この秋から土曜ゴールデンへ移動し放送時間も1時間に拡大した。深夜・日曜時代は視聴者によって投稿された疑問をさまぁーずとゲストが興味深い疑問を神ギ問、それほどでもない疑問をグ問に分類し、神ギ問以外はいっさい調べないというスタンスで、気になった人はスマホで自分で調べてという方向性だった。しかしゴールデン枠への栄転を機に(といってもまだ2回しか放送していないので、確定というわけでもなさそうだが、)リニューアルし、ここ2回は学校の先生でも感じる疑問を聞くという方向性へ変更。神ギ問以外もざっくりとは調べるというスタンスに変わった。個人的には以前の深夜番組的なスタンスの方が好印象で、今後見る機会が減りそうな気がしている。ゴールデン進出でつまらなくなる番組は決して少なくないが、この番組もその一つになってしまうような気がしてならない。
10/28の放送では「叱るときの言葉が『コラッ』って言うのはなぜなの?」という疑問が神ギ問に認定され、それについての調査を紹介しており、まずネットで検索してヒットした
「こら」とは鹿児島弁で、「あなた」という意味なのだそうです。明治の時代に警察官の職に就いた人は薩摩出身の方が多かったようで、その時に「オイ!コラ!」と、高圧的に聞こえたのだそうです。本来は おい=私 こら=あなたとの意味なのだそうですが、いつしか人に注意を促す際の言葉として定着していったのだとか。
という説を紹介した。その後「ゴールデンなので裏付をとる」というテロップを挟み、国立国語研究所教授の木部さんという方に取材を行った結果を紹介。彼女が言うには、鹿児島弁で「こら」という言葉はあるが、それは「あなた」と言う意味ではなく、「この人は」という意味の第三人称を示す言葉だそうだ。そして叱るときに「こら」という言葉を使用する場面が明治初期の小説にもあるそうで、江戸時代末期までには「こら」が叱る際に使用されていたと推測できるそうだ。木部さんの見解では、「こら」は「これ」と同義だそうで、何か不備を見つけて叱る際に「これは何事だ」若しくは「これはどうなっているんだ」と言っていたのが、「これは?」になり「こりゃあ…」、「こら」となったそうだ。
これについて番組では「ネットにはもっともらしく違うことが書いてある」と指摘していた。恐らく今年に入ってからフジテレビの他の番組で、ネット情報を検証・確認せずに鵜呑みにし、誤った内容を放送したという件がいくつかあり、それを踏まえて(というか、自分には茶化しているようにも見えた)のことなのだろう。
しかし番組が一体どこで最初に紹介した説が「もっともらしいが間違った見解」で木部さんの説が「正確な見解」と判断したのか自分には疑問だ。確かにネット上で誰が書いたかも分からない説と国立国語研究所の教授の説では、後者の方が正しそうだと感じる人が多いだろう。しかし木部さんは最初の説が明らかな間違いだとまでは言っていない。鹿児島弁の「こら」について「あなた」ではないのは確かかもしれないし、明治時代初期の小説に「こら」という表現があるという点からも、木部さんの説の方がより整合性に優れているようには思える。ただ番組内では、根拠になる文献の紹介・他の有識者への確認など、木部さんの説に対する裏付けの確認がされた様子は一切なかったし、裏付け調査をしているなら番組に反映されるだろうから、裏付け調査は行われなかったのだろう。
ということは木部さんの説にも何かしらの間違いがある恐れが全くないとは言えず、木部さんの説が有力ではあるが、最初の説が圧倒的に不正確で、木部さんの説が圧倒的に正しいとは言えないのではないだろうか。
要するに番組はネット情報=不正確、学者の説=正確という前提で判断を下しており、結局鵜呑みにしているのがネット情報なのか学者の説なのか差はあるが、鵜呑みにしたという点で言えば、誤った情報を放送したフジテレビの他の番組と大きく違わないように思える。例え学者の見解だろうが裏付け調査をしなければ、誤った情報を正しい情報として放送してしまう恐れは確実に存在する。そんな点でもこの番組が「ネットにはもっともらしく違うことが書いてある」と指摘したことは、これまでの不祥事を茶化したように思えたし、フジテレビ内では実効性のある反省がなされていないのでは?という懸念も感じてしまった。
このような指摘を気にしすぎて”諸説あります”などの端書が多用される状況も、自分はあまり好ましいとは思わないが、さまぁーずの神ギ問での「ネットにはもっともらしく違うことが書いてある」というあまりにも断定的すぎる表現は、ネットに頼った番組作りをしているにもかかわらず、テレビ業界・特にフジテレビに、ネット<テレビという驕りのようなものがまだまだあることを端的に表しているようで、哀れにすら見えてしまった。