スキップしてメイン コンテンツに移動
 

対面コミュニケーションと非対面コミュニケーション


 今朝・11/16のMXテレビ・モーニングCROSSの中でコメンテーターの正能茉優さんが、LINEや東京メトロなどが共同して進めるプロジェクト「&HAND(アンドハンド)」の一環として、電車内で妊婦など席を譲って欲しい人と席を譲る意思のある人のマッチングを助けるスマホアプリの実証実験を実施すると発表したことを取り上げた。これに対して「スマホに集中していても席を譲れるのが良い」という意見がある反面、「そもそもスマホばかり見ずに周囲に気を配るべき」「面と向かって声をかければいいだけ」などの否定的な意見もあることを紹介していた。


 また、彼女が講師をしている学校で、授業後中学生と話している時に、生徒がスマホで友達とLINEをし始めたことに不快感を感じたが、感情を抑えてどう感じているのかを聞いてみると、今の中学生は対面とネットでのコミュニケーションと対面コミュニケーションについて、優劣を感じる傾向が20代以上よりも低く、そもそも対面コミュニケーションを優先すべきという感覚が薄いのでそのような行動を取っていたという、自身の経験に基づく分析も紹介していた。
 要するに、現在は社会通念上、対面コミュニケーションとネットや電話、書簡によるやり取りなど非対面コミュニケーションを比べると、対面コミュニケーションの方が重要だとされているが、物心ついた頃からスマホでのコミュニケーションが身近にある今の10代が大人になる頃には、そこに優劣の差は無くなる、無くならずともその差はかなり縮まるのかもしれないという見解を示し、&HANDのようなスマホ経由で席を譲るマッチングサービスに対して、非対面コミュニケーションであることを理由に示される懸念は、必ずしも合理的とは言えない、と主張をしていた。

 
 確かに、彼女の話がこの先も絶対に現実になる可能性がないとは言えないが、それでも自分は、対面コミュニケーションは非対面コミュニケーションに比べてある種の優位性があると思う。それは、これまでに何度かこのブログでも触れたことがあるが、クレーム処理業務での経験から感じたことだ。非対面コミュニケーションに比べて対面コミュニケーションにはある種の優位性がある、という思いは、面と向かっては言えないのに、電話やメールだと暴言としか言えないような表現を平気で出来る人が想像以上に多かった、という経験によるものだ。電話やメールではまるでヤクザが脅しているかのような言葉を並べ、状況が状況なら脅迫としか思えない態度を示していた客が、出向いたり来店してもらったりするなど、対面で謝罪をする場面になると、電話やメールの向こう側にいた人とは思えないとても普通の人だった、なんてことが本当によくあった。対面でもヤクザのような態度を変えない人もいたにはいたが、それは確実に少数派だった。
 なぜ人は対面だと非対面時より相手に対して強く出ることを躊躇するようになるのか、それは顔を合わせることで多くの人は非対面時より相手の気持ちを察するようになるからだと自分は思っている。先進7カ国首脳会議・G7、通称サミットは、G20が開催されるようになってからは実質的にはその役割が薄くなり、実務的には不要であるという見解を示す人もいる。しかしそれでもG7が開催され続けている理由の1つに、今は電話や通信技術が発達し、遠く離れていても対面と変わりなく意見交換はできるが、各国のトップ同士が顔を合わせること自体に意味があり、それによってお互いに親近感を高められ、各国の結束を確認することが出来るから、という話もある。
 逆に対面でコミュニケーションすることによって感情が必要以上に高ぶり関係性をこじらせてしまうという場合も確実にある。しかし非対面コミュニケーションでも前述したクレーム処理の話のように、それが理由で感情が必要以上に高ぶってしまうこともあるのだから、対面コミュニケーションは非対面コミュニケーションよりも劣っているということにはならないだろう。
 
 このような話を根拠にしたとしても、どんな場合でも対面コミュニケーションの方が圧倒的に優れているとは言えないことも事実だ。しかし、例えば今週は、酒の席で自分が話をしていたのに後輩力士がスマホを弄っていたことに腹を立て、酒に酔った勢いもあり、先輩力士が暴力を振るってその後輩力士に大怪我をさせてしまった、という件が大きな話題になっている。報道されている内容が事実に即しているかどうかは、今のところ憶測や様々な言い分が錯綜しており判断が難しい。しかし事実かどうかは別としてそのような状況があったとしたら、暴力を振るって大怪我をさせたことは確実に問題だが、彼が後輩力士に感じた不快感を自分も感じると思う。
 自分だって、一緒に過ごしている友人がずっと、若しくは頻繁に自分と共有している時間よりもスマホに集中しているようなら、それ以降は誘いたいと思わないだろうし、その友人に何かに誘われても恐らく断るだろう。例えばその相手が集中しているのがスマホでなく、自分と関係ない誰かへの手紙を書くこと、又は読むことだったとしても、やはり「それは今じゃなくてもいいだろう」と思うだろう。スマホでもなく手紙でもなく、仕事に関することに集中されても、相手や状況にも寄るだろうが、基本的には、同じように「だったら一緒にいる必用はない」とか「一人の時にやってくれ」と感じると思う。
 結局そのような話は、スマホだからとかLINEだからという話ではなく、根本的には他人に対しての敬意に関する話で、そのような態度への不快感は、ネットが普及する以前も、どの時代にも存在していた概ね普遍的な感覚と言えるのではないだろうか。

 そのようなことから考えれば、正能さんと話している時にLINEを始めた中学生の行為は、例えばLINEでやり取りしていた内容が正能さんと話していることに関係のある内容で、LINEでやり取りをしていた友人にも意見を募ったというようなことなら、尊重するべきとも言えそうだ。だが、今話をしている正能さんのことを気にかけずに別の会話を他の人とし始めたのならば、彼女に”話をしている相手への敬意が足りない”とその相手にどう思われるかを教えるべき、要するに、注意するべきだったと自分は思う。講師という立場で注意、というと上から目線に思えるかもしれないが、友達など対等な人間関係でもそのような態度を不快と感じるならば、何かしらの方法で不快だという意思表示をすることになるだろうから、単に上から目線の高飛車な態度という話にはならないと自分は考える。


 正能さんは中学生の声として
大人はよく「現実かネットか」と言うけど
僕たち中学生にはネットも現実の一部
実際の会話もLINEのやりとりも
そんなに違いはない
どちらも僕たちのリアルな日常
という彼らの主張を紹介していた。確かに最初に触れていた&HANDのようなプロジェクトについて、席の譲り方という視点だけで考えれば、周囲に気を配り直接声をかける方法と、スマホアプリを介して席を譲ることに関して優劣を付けて考えるべきではないかもしれない。だが前述したような理由で、直接声をかけることや周囲に自らの目や耳で気を配るというような対面コミュニケーションには、スマホアプリを介しては得られない感情の変化があると考える。しかしその一方で、確かにマッチングの良さはスマホアプリを介した方が上かもしれないとも思える。
 そのように考えれば、実際の会話とLINEのやりとりには確実に差がある。どちらかが圧倒的に優れている・劣っているという話ではないとしても、確実に対面コミュニケーションと非対面コミュニケーションには違いが存在する。そして誰かと時間を共有するなら、対面だろうが非対面であろうが、やはりまず相手を尊重した態度を示すべきだ。だから「実際の会話やLINEのやりとりについて優劣などないから、自分の好きなようにスマホを弄らせてもらうよ」というのは、社会的な規範として当たり前になるべき感覚ではないと感じる。
 もし人間の記憶や意識をネットにアップロードできるようになり、仮想空間でのコミュニケーションが主流になって対面コミュニケーションが実質的に必用なくなったとしても、結局相手への敬意がコミュニケーションの基本として必用であることはずっと変わらないと思う。


 トップ画像は、Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash を使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。