スキップしてメイン コンテンツに移動
 

”意味がない”の意味


 対話のための対話では意味がない

安倍首相や周辺の政府関係者が再三繰り返して用いる、彼らの北朝鮮問題への対応姿勢に関する表現だ。いいとか悪いとか、正しいか・間違っているかとは別だが、自分はこの表現が嫌いである。
 嫌いな理由はいくつかある。まず、首相のこの表現を拡大解釈し「対話は北朝鮮問題解決に関して有効性が一切ない」という、強硬で攻撃的な意思表明をする人が少なくないからだ。厳密には、首相は「対話には全く意味がない」とは言っていない。「問題解決に繋がらないような対話をだらだらと繰り返しても仕方ない」というようなニュアンスが「対話のための対話では意味がない」という台詞が示す内容に最も近いだろう。このニュアンスが広く国民に伝わり、”対話も必要だが、今は経済的・政治的な圧力を重視するべき時期だ”というような認識が浸透するのなら何も問題はない。しかし現実はそうはなっておらず、自衛隊が米国などとの北朝鮮を確実に意識した合同訓練をしばしば行っていることなどもあり、首相らがこの台詞を繰り返すことを背景に、現在日本では憲法で認められていない武力による威嚇や、更には行使も前向きに考えるべきと主張する者、明確に主張せずとも首相同様にそのようなニュアンスを強く滲ませる者は決して少なくない。そのような主張が絶対的にあってはならないとは言わないが、そう主張するなら、まず憲法を適切に改正してからの方がよい。現状がもし深刻な状態だとしても、憲法の精神を蔑ろにしていいはずはないし、なし崩し的・超法規的な方法論の主張は確実に避けるべきだ。


 そして、この台詞によって前述のような風潮が生まれていることを首相自身も確実に認識しているはずなのに、「対話のための対話では意味がない」という台詞が指し示すものが、「問題解決に繋がらないような対話をだらだら繰り返しても仕方ないというだけで、決して外交交渉において対話が全く必用ないわけではない」ということだと明確に釘をさすことで、そのような風潮に対する牽制を行おうとしないことも、首相がこの台詞を用いることを嫌悪する理由の一つだ。
 この台詞に影響されて強硬で攻撃的な意思表明をするようなタイプの人たちは、大概首相や自民党を支持しているようだし、彼の悲願とされている、憲法(9条)改正の機運を高めるのには丁度良いと思っているのかもしれない。若しくは、実際に「対話には全く意味がない」と彼自身も思っているが、そのようにハッキリ表明することはリスクが高いので、「対話のための対話では意味がない」と表現をぼかし、実質的なニュアンスだけが広がることを期待しているのかもしれない。
 或いは全く別の理由があるのかもしれないが、結局彼がハッキリと、「『対話のための対話では意味がない』という台詞の真意は、問題解決に繋がらないような対話をだらだら繰り返しても仕方ないという意味で、決して外交交渉において対話が全く必用ないということではない」と説明し、拡大解釈している人たちを積極的に牽制しようとしていないのは事実だ。確かにこの台詞を彼が用いる場面で、そう考える理由を説明していることを見かけることもある。しかし拡大解釈されることを抑制するのに最も大事なのは、「決して外交交渉において対話が全く必用ないということでない」という部分だろう。外務大臣を務めていた岸田氏が”対話も必要だが今は経済的・政治的な圧力を重視するべき時期だ”という旨の説明をしたのを見たことはあるが、自分は、首相自身が「決して外交交渉において対話が全く必用ないということでない」と明言しているのを見たことがない。流石に全ての発言をチェックしているわけではないが、自分の記憶では現内閣では誰一人としてこう言わない、もしかすると言えないのかもしれないが、言っていないと認識している。
 個人的には、実際に彼は「対話には全く(若しくは殆ど)意味がない」と思っているが、そのようにハッキリ表明することはリスクが高いとも感じており、もしもの場合、例えば”独自の外交交渉をする気が全くないのか”とか、”対話なしで拉致被害者の帰国が実現すると本当に思っているのか”などのような批判が今後高まるなどした場合に、責任を問われないようにするための保険として、「対話のための対話では意味がない」という台詞を用いていると思っている。野党らが加計学園問題に関する議論のために召集を求めた臨時国会に関して、憲法で首相は召集を決定しなければならないと定められているのに、その条文の精神に反して、召集の決定さえすれば議論がなされない状態で国会(衆議院)を解散させても憲法違反には該当しないという見解を示していたし、彼がそれと似たような強引で全く賛同・容認できない解釈を示すことは、これまでそれ以外にも多々あった。それを踏まえて考えると「対話のための対話では意味がない」という発言に関しても、彼が本心を語らず、自分の都合を重視して風見鶏的な態度を取っているように見えてしまう。それもこの表現が嫌いな理由の一つだ。

 ここまでの話を”意味がない”という表現に注目してまとめると、対話のための対話では”意味がない”という表現が絶対間違いだとは言えないが、どんな国との外交関係においても対話に全く”意味がない”なんてことは確実に有り得ない。要するに対話には少なからず意味がある”ということだ。”意味がない”という表現は新しい表現でもなんでもない。かなり昔から用いられている表現だろう。効果が薄いとか、対応として不充分というようなことを示す表現だ。そのような状況・状態を”意味がない”と表現するのは、そのニュアンスを強調したり、場合によっては皮肉めいた印象をより強調する為に用いられたりもする。
 今朝・11/20のMXテレビ・モーニングCROSSでは「LINEで中高生の悩み相談 電話相談の55倍ぺース(リンク先は朝日新聞の記事)」という、LINEで悩み相談を実施したところ、従来の電話相談より多くの相談が寄せられたというニュースを紹介していた。画面に表示されたこれについての視聴者ツイートの中に、「相談に乗っただけじゃ、意味が無い(笑)。」とか、「LINEの悩み相談、55倍というアクセス件数で満足しないで、相談した結果、電話よりもLINEの方がよかったのか、という満足度調査をしなければ意味がないのでは?」などがあった。確かに相談に乗ったその結果、悩みが完全に解消することが最良であることは間違いない。悩みを聞くだけでは当然そこに至らない恐れもある。しかしこれまで誰にも相談できなかった人が、電話でなくLINEでそれよりも気軽に相談できる環境が作られたことで、相談してみようと思うようになっていることは事実だろうし、完全に問題が解決しなくても、悩みというのは、言葉にして吐き出すことだけでは完全に解決しなくとも、悩みが軽くなって少し気が晴れることもある。そのように受け止めれば、相談件数が増えたというだけでも確実に”意味がある”。だとすれば前者の視聴者ツイートは妥当な認識とは言えないのではないか。後者のツイートに関しても、これから更に悩み相談の環境を改善していく為には確実にそのような観点も必用と言えると自分も思うが、「満足度調査をしなければ意味がない」という表現は強すぎて正確とは言えず、「満足度調査も行えば更によい」などの表現が妥当だと自分は考える。
 
 今日のモーニングCROSSの視聴者ツイートの中で、”意味がない”という表現が適当とは思えない場面で用いられた理由が、どこにあるのかは分からないし自分には調べようもない。それは単に人それぞれのニュアンスの感じ方の差や、言葉選びのセンスでしかないかもしれない。しかし個人的には、あくまで一個人の受け止めでしかないが、首相が「対話のための対話では”意味がない”」などと、必要以上に外交的な対話の必要性は低いと感じさせるような表現を頻繁に用いることと無関係であるとは思えない。そんな観点でも首相は「対話のための対話では”意味がない”」なんて誤解を生みやすく、そしてこれまでの政権を皮肉るような表現でなく、もっと国民が直感的に、そして適切に理解できる直接的な表現を心がけて欲しい。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。