先週、大学入試で歴史の細かい用語を問うような設問が出題される影響で、高校の歴史が暗記中心になっているとして、高校や大学の教員らが参加する高大連携歴史教育研究会が、知識を問われる用語、要するに教科書で扱うべき用語を現在の約3500語から半分程度にすべきという見解を示した、ということが複数のメディアによって報じられて話題になった。
確かに暗記重視に陥っている現状は改善するべきだと自分も思う。しかし、その解決方法として扱う用語を減らすべきという考えには全く同意できない。現在の教育指導要綱について詳細は知らないが、自分の経験では歴史の授業・特に日本史に関しては縄文から現在まで、小学校・中学校・高校でそれぞれ一周ずつ授業を受けた。小学校で大まかな流れを掴み、中学校で少し掘り下げ、高校の歴史の授業は中学校の反復や主に大学受験対策的な内容だったように記憶している。大まかな流れを掴むことに重きを置くべきであろう小学校の日本史で取り上げる用語は、ある程度絞った方がよいのは分かるが、3周目の高校の授業は、個人的には、大学同様それぞれの学校や教員によって掘り下げる時期や分野に幅を持たせても良いのではないかと思うし、その為には扱うべき用語を絞るなんてのは適さないように思う。用語を絞ることで目指すのは、小学校と中学校で2度やったことをまた繰り返すことでしかないように思える。それが本当に有意義な高等教育と言えるだろうか。
そうは言っても、大学への進学がかなり一般化している状況を考えれば、受験生の多くが受験対策の大部分を高校より予備校に期待しているのが実状だとしても、高校の授業が受験対策を完全に度外視できないことも事実だろう。しかしそんな側面を考慮したとしても、高校と大学の教員が口を揃えて「高校の歴史の授業で扱う用語を減らすべき」なんて言っているのはとても滑稽に見える。何故なら、暗記重視になってしまっている理由は、”扱う用語の多さ”ではなく”大学入試の方式や問題”にあると自分には思えるからだ。
電卓が発売された頃「電卓や機械に頼ると暗算が出来なくなって馬鹿になる」というような話があり、概ね肯定的に受け入れられていたという話を聞いたことがある。確かに今も昔も算数や数学のテストで電卓持ち込み可である場合の方が確実に少ないし、それが暗算の訓練、そのきっかけにもなっているだろうからごく当然と言えばそうかもしれない。しかし、いざ社会に出ると、例えば「見積書を暗算だけで計算しました、検算もしたから大丈夫です」なんて言っても、「計算間違いがあると困るからエクセルで作り直せ」なんて言われることもある。少し極端だが、言い換えれば、「電卓や機械(パソコン)があるのに使わない方が馬鹿」と言われているようなものだ。
確かに暗算が出来るに越したことはないし、ある種の職業などでは暗算が必須の能力である場合もあり、ある程度は暗算・若しくは手作業の計算を訓練する必要性は確実にある。しかし大学入試レベルの数学において暗算能力まで重視する必要性があるのかについては疑問で、社会に出れば電卓やパソコンによる計算が重視される状況なのだから、大学入試なども電卓の持ち込みを認めてもよいのではないかと自分は考える。理数系の研究者であっても、研究過程で全くパソコンや電卓を使用しないなんて人はいないし、仮にいたとしてもごく少数なんじゃないだろうか。そして電卓やパソコンのおかげで数学などが進化した部分も確実にあり、「電卓や機械に一切頼らないなんて時代錯誤も甚だしい」と言えることは間違いない。寧ろ有効活用出来なければ評価は確実に下がるはずだ。
この話を歴史に置き換えて考えてみる。歴史に親しむ人、若しくは研究レベルで歴史にかかわる人でもその多くは、その過程で確実に資料を利用するだろうし、現在はどこにいても利用できるスマートフォンとネット接続を使って、うろ覚えな用語や確認したい事をしばしば調べるだろう。要するに歴史に限った話ではないが、現在重要なのは、何にも頼らず自分の記憶だけで一言一句違わず説明できることではなく、知識に関しては広く浅くしか覚えていなかったとしてもネット等で確認できるので、疑問に感じることや発想・思いついくことの方が以前にも増して重要になっているし、情報をネットなどで効率よく拾い取捨選択できることや正しく評価できること、更にはそれらを組み合わせて適切に活用できることが最も重要なことだろう。そのような現在の時代背景を踏まえれば、歴史の暗記重視傾向を改善する為には、大学入試をスマートフォン等の持ち込み可とした上で、単純に検索するだけでは答えが出ないような設問を出題した方が良いのではないだろうか。
しかし通信機能のある機器の使用を認めると、自分の頭で考えずに外部に問題を丸投げし、その返答をそのまま回答とする者が確実に現れるだろう。それではテストとして適切な入学志願者の選別ができない。しかしスマートフォンのかわりに教科書を持ち込み可にすればそれも解決できそうだと自分は思う。教科書はスマートフォン+ネットよりは確実に調べられる情報は少ないし、検索効率も悪い。しかし効率よく目的の情報を調べるには、最低限必要な知識を備えておかなければならないという点においては、スマートフォン+ネットも教科書も大差ないだろう。しかも歴史の試験なのだから調べられる範囲も教科書の範囲で充分だ。歴史を学ぶ上で大事なのが暗記でなく、流れや意義を把握すること、それを踏まえた上で考えることが出来るかどうかならば、教科書の持ち込みを認めても何ら問題はないのではないか。だから自分は暗記重視傾向の改善に有効なのは、扱う用語の削減ではなく試験を教科書持ち込み可にすることではないかと考える。
暗算と電卓に関する話の中で、ある程度は暗算や手計算の訓練も必要だと述べたように、歴史を学ぶ上でも最低限の用語を覚えることは必要だと思う。だから小学校のテストや中学入試に関しては、今まで通り電卓の持ち込みも教科書の持ち込みも不可でいいと思う。しかしそれを小学校から大学入試までずっと重視する必要性があるとは思えない。中学校から持ち込み可とするか、高校からの方が適当かなどについては、暗算や暗記の訓練を重視するのか、生徒の興味をより本質的・専門的な部分に向ける(暗算や暗記よりも本質的な部分を考える楽しさが感じられる機会を増やす)方が重要と考えるかによっても見解が異なるだろう。ただ個人的には、パソコン・スマートフォン・ネットの利用がここまで一般化した社会状況においては、暗算や暗記よりもそれらの活用の方を重視するべきで、暗算暗記の重視は小学校までで充分だと考える。
今の日本の状況は、高校までが基礎的な学習・言い換えれば大学への準備期間で、大学や専門学校からが専門的分野での学習に該当すると考えられているように自分には思える。その状況が好ましいなら今のままでも良いかもしれないが、その結果として暗記重視に陥っている高校の歴史教育が問題視されているのだから、少なくとも高校ではそれらの持ち込みなどを解禁し、学習の専門性をもう少し重視するべきではないだろうか。
高校だけでなく大学教員も参加する研究会は、暗記重視解消の為に扱う用語を減らそうという発想で、一体どのような教育を目指すというのだろう。