スキップしてメイン コンテンツに移動
 

制服の必要性


 11/22、ハフポストが「『高過ぎ…』の声受け、全国の公立中学450校の制服の値段を比べて見えたこと」という見出しで、公正取引員会がまとめた公立中学の取引実態に関する調査結果報告についての記事を掲載していた。記事によるとこの10年で制服の価格は、材料価格の高騰を背景に上昇傾向にあるそうだ。価格に関する分析も示されているが、資本主義経済での価格決定に関するごくごく当たり前のことが書かれているだけで、とりわけ注目するべき点はない。しかし、そのような報告書がまとめられ、提言として学校や業者に示されるということは、学校と業者の癒着で適正な価格設定がなされていないなど、公正な取引が行われているとは言えない場合もあるということの裏返しだとも考えられる。

 
 制服ではないが、親戚が学校ジャージを納入するスポーツショップで働いていたことがあり、その時に聞いた話だと、指定ジャージの選定に強い影響力を持つ体育科教員が顧問を務める部活の用品購入時に、サービスを求められることもあったそうだ。そんな場合は、ジャージを扱う問屋やメーカーと分担してサービス分を賄うこともあるらしい。問屋やメーカーだって学校指定ジャージとなれば、毎年定期的な大口注文が見込めるので協力的な場合が殆どだったそうだ。
 制服はジャージよりも更に置き換えの機会は少ないだろうし、こんなケースが一体どの程度あるのかは詳しく知らないが、記事を読みながらそんな話を思い出し、記事で示されているような提言が出されるということは、似たようなケースが制服についても全くないことはないのだろうし、場合によってはもっと露骨と言うか、べったり癒着している場合もあるんだろうかと想像してしまった。
 
 11/13の「制服に関するおかしな校則」という見出しを付けた投稿でも、果たして中学高校の制服は本当に必要なのかについて書いた。その投稿で自分は学校の制服について否定的な見解を示したが、一方で制服の良い部分もあると思っている。それは全員が同じ服を着ることで、裕福な家庭の子供もそうでない家庭の子供にも差がつかず、そうでない家庭の子供が服装で劣等感を持ってしまう恐れを低く出来るということだと思う。制服があるのはごく一部の伝統校などに限られる欧米でも、金銭的に厳しい家庭に育つ子供が劣等感を感じないようにという配慮はあるようで、ヒップホップのアーティストなどが好む、編み込んで髪を装飾する手法・コーンロウなど、状態を維持するのにある程度お金のかかる髪型などでの登校を禁止している学校もあるそうだ。コーンロウは状態を維持するためには10日前後ごとに編み直す必要があるそうだ。友達同士で簡単な編み込みをする程度なら費用はかからないが、手の込んだデザインをヘアスタイリストに頼めば、相応の費用が必要になる。
 劣等感の排除が、制服が必要な一番の理由であるなら、これだけ日本の中学高校で制服がスタンダードなことも頷ける。しかし、もしそれが本当に一番の理由ならば、なぜ制服のある小学校は殆どないのだろうか。しかも、地方では公立校でも制服のある小学校を見かけることはあるが、生徒が暮らす家庭の貧富の差がより高いと想像出来る都市部の公立校には、ほぼ制服がない。ということは、中学高校に制服がある一番の理由は、貧しい家庭に育つ子供に劣等感を感じさせない為ではないのではないか。全然その要素がないこともないだろうが、自分にはそれは後で加えられた話のように思える。
 自分は歴史学者でも研究者でもないから、はっきりとしたことは分からないが、日本の学校制服は軍国的な教育の名残であるように思う。今ではブレザータイプが主流だが、以前は詰襟・セーラー服などが主流で、それらの源流は海軍の軍服にあるように見える。流石に今の制服にも軍国主義的な意図が色濃く見えるとは思わないが、それでも子供が劣等感を感じないようにという最もらしい理由でなく、管理とか秩序とか規律なんてものの為に制服が定められているという側面が強いと自分は感じる。

 このような話になると、昨日の投稿で書いた自民党・竹下氏のように学校制服は「日本の伝統」なんて言い始める人もいるかもしれない。確かに100年前後続いているのだから、ある意味では伝統と言えるかもしれないが、伝統だから必ず続けなくてはいけないなんてことはない。例えば、歌舞伎は日本の伝統芸能だが、最近では人気漫画ワンピースを題材にした公演を行っているし、当然廃れて演じられなくなった演目だってあるはずだ。落語なども同様で新しい演目が作られる一方で、受けが芳しくなくなった古典は使われなくなっていく。使われなくならなくても、その時代その時代にあったアレンジが加えられたりする。伝統かどうかと続けるべきか・変えるべきかは、全く関係がない話ではないものの、混同して考えない方がよい話だと思う。
 
 自分はそんな風に考えているので、指定制服の着用義務はやはり必要ないと思う。でも別に撤廃した方がよいと思っているわけでもない。毎日服を選ぶのが面倒という子も確実にいるし、逆に制服に憧れるという子もいるだろう。私立校などは各校の特色と判断で制服の着用義務を課してもいいだろう。でも公立校に関しては、着用が義務ではない制服を一応用意し、着るも着ないも各個人の判断で自由に選んでよいというのが、今の日本の社会にはあっているんじゃないかと思う。
 たとえ制服の着用義務がなくても、服装に関する指導は必要だろう。指導と言うと上から目線で価値観を押し付けるような印象受ける人もいるかもしれないが、冠婚葬祭などでのマナーだとか、面接を受ける際に注意するべきポイントなどを、社会に出る前に知ることは必要だ。今は制服があること自体が生活指導とされていて、そんなことを教えてもらう機会はほとんどない。昔は、それは学校でなく家庭で教えること、という認識が一般的だったという側面もあるだろうが、核家族化の進行とも相まって、実際には親世代もそれらに関する適切な知識を持ち合わせていない場合も多くなっているように自分は思う。となると、やはり今の日本で必要な教育は、制服の着用義務でなく、社会に出てから確実に役立つ社会の一般的な服装マナーを子供たちに示すことの方ではないだろうか。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。