スキップしてメイン コンテンツに移動
 

文字数制限と極端な主張


 ツイッターがネットの中でも有力な情報伝達・収集インフラになって久しい。ネット上での不特定多数に向けた主張の為のツールとして、最も利用されているのがツイッターではないだろうか。最近はタレントや芸能人だけでなく有識者・政治家などにも利用者は多い。自分の感覚ではブログやFacebookに比べても、ツイッターの利用が抜きんでているように感じる。ツイッターにはハッシュタグとリツイートという、情報を広がりやすくする為の機能があり、自分の思いをなるべく広く届けたいと考える政治家、というか、政治家に限らず自己主張をする人の多くは誰でも、出来るだけ多くの人に見てもらいたいという思いがあるだろう。そんな思惑とそれらの機能が合致したことや、少ない文字数での投稿しかできないが、逆にそれが気軽さに繋がっているという側面もあって、ブログやFacebookよりもツイッターの利用者が多い今の状況に繋がっているのだと思う。
 しかし自分はツイッターがあまり好きではない。その一番の理由は、気軽さの一因にもなっていると思われる文字数制限の厳しさだ。自分はこのブログを始めた頃からBuzzfeed Japanとハフポスト日本版の記事を中心にコメントを書き始めた。それらのコメント欄はFacebookのコメント機能を利用しており、Facebookのタイムラインにもコメントを同時に投稿することが出来るし、文字数に関する制限もない。文字数制限がないから記事を読んで感じたことをそっくりそのまま書くことが出来る。たまにかなり長いコメントになってしまい、「これじゃ読んでもらえないかな?」と思うこともあるが、このブログの投稿よりは明らかに短い。読んでもらえないかもしれないと懸念して、少ない文字数に強引に縮めた結果、言いたいことと書いたことが乖離してしまうようでは本末転倒だ。勿論出来る限り簡潔に纏めるようには心掛けているつもりだが、どちらかと言えば、文の短さよりも内容を重視してコメントを書いている。

 
 これまでツイッターを殆ど利用していなかったが、先週はいくつかツイートをしてみた。そのきっかけは、MXテレビ・モーニングCROSSのコメンテーターが番組で主張したことに対しての、このブログで書いた自分なりの受け止めを、彼らに読んで欲しいと思ったからだ。ツイッターでは返信機能を使えば、任意のアカウントに向けてツイートをすることが出来る。テレビでコメンテーターを務めるような人たちの元には多くの返信ツイートが集まるだろうから、自分の書いたブログ投稿へのリンクを必ずクリックしてもらえるなんて思ってはいないが、ただブログに書いているだけよりは読んでもらえる可能性を高められるだろう。
 そんな経緯でツイートをしてみたが、TBS NEWSの”ロヒンギャ迫害決議案”という見出しについての話なども、人の目に触れる機会が増えるかもしれないと思ってツイートしてみた。その他にもBuzzfeed Japanやハフポストの記事にコメントするような感覚で他のメディアの記事を読んだ感想を、記事へのリンクとハッシュタグをつけてツイートしてみた。その際に感じたことはやはり文字数制限が厳しく、ツイッターだと書きたいことが書けないということだった。ただでさえ文字数制限が厳しいのにリンクやハッシュタグで文字数を削られると、自分のコメントで使える文字数はかなり少なくなる。人によっては複数のツイートに渡って書き連ねることもあるようだが、自分はそれをするならブログに書いてリンクを付けた方がスマートだと思う。しかしリンクをクリックさせるというワンクッションが入ると、ツイートに直接書くより読んでくれる人は減るだろうから、読まれることを重視する人はツイートに書き連ねるのだろう。しかし複数ツイートに書き連ねるにしても、一度書いた文章からどんどん単語をそぎ落とすなどの方法で、出来る限り文字数を圧縮する努力をするだろう。
 確かに文章を書く上では、一度書いたものを何度か読み直し、できるだけ不要な部分をそぎ落としたり、言い回しを簡潔にしたり、場合によっては足りない部分を足したりすることもあるが、文章を出来るだけスリム化していくことは重要なことだ。しかし、それにしてもツイッターの文字数制限では、伝えきれないことが多いし、場合よっては文字のそぎ落としと情報の詰め込みすぎが相まって、誤解を生みやすくなってしまっているツイートや、更に悪い場合は誇張になっていたり、断定できないことを断定してしまっているツイートを見かけることもしばしばある。これは前段で上げた”ロヒンギャ迫害決議案”なんて見出しについても同様で、少ない文字数の中に記事の内容を押し込もうとした結果、ロヒンギャ迫害”避難”決議案を、ロヒンギャを迫害することを決議したかのようにも読めてしまう”ロヒンギャ迫害決議案”なんて表現にしてしまっている。ツイッター上でもこれと似たような不正確・極端・誇張を含む表現が結構多い。

 ここ数年、ヘイトスピーチなど極端で一方的な認識に基づく差別・偏見がネット上にも広がっている。ツイッターにはそんな状況の広がりに一役買ってしまっている面もあるのではないだろうか。鶏が先か卵が先かという話もあるだろうが、

それだけが理由ではないかもしれないが、
ツイッターの文字数制限の影響などもあり、
極端で正確ではない表現が投稿される

それを見た者の中には不正確さに気付かずに、
場合によっては見て見ぬふりで共感する者もいる

元のツイートを見た者が触発され、
同じようなツイートをする

その種のツイートが増えれば、
自分と同じ考えの者が他にもいると感じて増長する

結果として適切な判断がされない状況、
適切な判断能力の欠如に繋がる

というような構図が一部にはあるのではないか、と自分は考える。全部が全部ツイッターの普及が原因だなんてこれっぽっちも思っていないが、匿名であることをいいことに(中には実名も顔も出して堂々と言いのける者もいるが)、極端なことを恥ずかしげもなく言える、若しくは明確な根拠もなく断言して他人を罵るような、ここ最近、一部で広がる風潮や、大手メディアですら不正確な見出し・記事をしばしば掲載するような状況は、ツイッターや、ネット上で強い影響力を誇るYahooニュースの見出しなどがかなり厳しい文字数制限を課していることも、その要因の一つにはなっているんじゃないかと自分は思う。
 自分の小学3年生時の担任が、国語に力を入れるタイプの先生で、その先生は毎週の漢字テストの為の準備と、週に1,2回程度、100文字作文・若しくは200文字作文を宿題として課した。この時の経験はその後とても役に立っていると感じている。自分の文章は素晴らしいなんて誇れるようなものではないが、その経験から、書き終わった直後ではなく少し時間を置いて読み返すことで、それまで気付かなかったことが見えることがあること、出来る限り自分の思いに忠実になるように、そして演出はしても嘘にならないような言葉を選ぶことの重要さなどを知ることが出来た。それはネット上に自分の主張を書くときにも確実に役立っているし、書くときだけでなく読むときにも、読んでいる文章の表現が適切かを見極める基準として確実に活きている。注意を払うべき文章の分量が減るのだから当然のことだが、文字数が少なければ少ないほど不適切な表現は見つけやすくなる。そして少ない文字数で正確な表現・誤解を確実に避けられるような表現を書くには、思っている以上に工夫が必要になる。自分はそこに労力を割くより物事を考えることに時間の使いたいから、文字数制限の厳しいツイッターは好みでない。

 ツイッターの由来となるツイートとは「(鳥の)さえずり」という意味らしい。ツイッターは元来、独り言の記録(ログ、そんな意味で短いブログ(ウェブログ)と認識をする人もいる)・独り言を可視化する為のものなのだから、細かい書き損じ、誤字脱字、個人的な極端な思いなども否定せず、容認するべきなのかもしれない。しかし文章能力の低さなのか、文字数制限によるものなのか、単純な悪意なのかは場合にもよるだろうが、不正確な情報が広がったり、他人に対する根拠すらない誹謗中傷・差別偏見のような主張が公然と行われていることは、確実に好ましい状況とは言えない。中にはそのようなことまで包容することが自由と寛容の精神だ、などのような詭弁を主張する者もいる。確かにストレスのはけ口という視点で捉えれば、悪意に満ちていたり、憎しみを生むような主張にもそれなりの存在意義はあるかもしれないが、そんな側面を考慮したとしても、そんなものは自由でも寛容でもなく、責任を伴わない無秩序でしかない。自由と責任は確実にセットで考えなければならない。自分勝手と自由を混同してはならない。
 
 自分の考えが全てだとは言わない。文字数制限とこのような事態の改善が両立できるならそれでもいい。しかしツイッターにはもっと積極的に現在の無秩序とさえ思える風潮の改善を行って欲しい。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。