座間市のアパートで9人の遺体が見つかった事件で、容疑者と被害者が”自殺”をキーワードにツイッター上でやり取りを行っていたことなどを受けて、再発防止策として政府がツイッターの規制なども検討していると時事通信などが報じている。ハフポストによると、この件について菅官房長官も「Twitterの規制について、検討の対象に僕はなるだろうと思いますけれど、現段階で予断を持ってお答えすることは控えたい」と述べたそうで、あくまで検討段階であって詳細は何も決まっていないようだが、関係閣僚会議に”自殺に関する不適切なサイトや、書き込みへの対策の強化”などの検討を指示したそうだ。
まず自分が感じたのは、Twitterを始めとしたSNS上や、SNSだけでなくブログなどWeb上の不適当な情報発信について、何らかの対策を講じる必要があることは間違いないだろう。ただ、投稿の規制などが政府主導で積極的に行われれば、場合によっては現在の中国やロシアのような状況にもなりかねず、菅氏が検討を指示したという”書き込みへの対策”が文言などによる投稿への規制ということなら、好ましいとは思えないし、そのような表現規制への懸念を度外視したとしても、自殺の予防などについてはその実効性も薄いのではないかということだ。確かに自殺や殺人事件に関してだけでなく、ヘイトスピーチなど差別の肯定や偏見に基づく誹謗中傷なども含めて、SNSなどへの不適当な投稿に何かしらの抑制策が必要であるという意見には賛同するが、自殺関連にだけ焦点を絞れば、書き込みへの対策が文言による書き込み規制であっては決してならないと感じる。
座間の事件では容疑者が”自殺”に関するキーワードで被害者になってしまった人々を検索し辿り着いているらしいということが報道されている。しかし全ての自殺に関する書き込みが悲惨な結果に繋がるとは決して言い難いし、中にはSNS上で似たような境遇の人を見つけたり、サポートしてくれる人に出会うなどして、問題が和らげられたり、解消した人もいるだろう。”自殺”などやそれに類似するキーワードで検閲し書き込みを規制すれば、その結果として座間の事件のような悲惨な結果が起こるリスクを下げることが出来るかもしれない。しかし同時に”自殺”などのキーワードを用いて書き込むことによって救われる人のチャンスも奪うことになるかもしれない。更にキーワードなどによる規制を行っても結局新たな隠語が生まれるだけだろうから、根本的には何も変わらないのではないだろうか。
前述したように、具体策は何も決まっていないということのようだが、菅官房長官が”Twitterの規制”という表現を用いたことから、やはり使用文言などによる書き込み規制を想定しているのではないかと思えてしまう。そんな予測と前段で説明したような理由から、自分が”Twitterの規制”という文言から連想するのは、”臭いものに蓋”的な短絡的な対処でしかないということだ。そしてあくまで検討であったとしても、官房長官が表現規制に前向きだとは言えないだろうが、後ろ向きではないということは間違いなさそうだ。
自殺、特に若年層の自殺増加、10代の死因の第1位が自殺であることなどは数年前から深刻な問題として語られている。直近に発覚した座間の事件はその不可解さから注目を浴びることになったが、自殺に関する問題が急に持ち上がったわけでは決してない。自殺、特に若年層の自殺が増えている理由は、明るい未来が描きにくい社会の状況や、閉塞感が高い社会の状況に問題があるのだと思う。ならば今必用な対処は、付け焼刃的・場当たり的なSNSやWebの規制ではなく、そのような先行きに希望を感じられない社会の改善ではないのか。
子育て政策で求められているのは待機児童問題の解消なのに、それも実現しないうちから幼児教育無償化なんて的外れなことを言い出すのと同様に、またもや見当違いの対策に予算が割かれるのではないかと思うと、現政権が強くアピールする経済政策についても、彼らは株価や失業率などが改善したと自分達の手柄のように語るが、物価上昇率2%の目標は延期に次ぐ延期で全く達成できる気配はないし、実質賃金などは寧ろ下がっているという調査結果もあり、庶民の足元の景気は決して拡大しているとは思えない。そんなことと合わせて想像すると、彼らが最大の売りにしている経済政策も、アメリカの株価上昇や団塊世代の定年期と重なっていることでカモフラージュされているから分かり難いが、実際は的外れな政策が続けられているのではないかと疑いたくなってしまう。
確かに様々な検討を行うことは確実に必要で、どんな内容でも検討すること自体は何も悪いことではないだろうが、先日も幼児教育無償化について認可外保育所を対象外にすることを検討しているし、的外れ(と思われるよう)な検討が真剣にされていると立て続けに明らかになれば、「大丈夫か?」と感じてしまうのも、それはそれで当然のことではないだろうか。