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中学教員の不適切ツイートから考える


 埼玉県北本市の公立中学のある男性教員が、男子生徒を装ってある女子生徒について「顔で損しているよな」とか「あの体型、あの嫌われようでよく学校来れると思う」などとツイッターに投稿していたと、複数のメディアが報じている。この件が明らかになった発端は、10月に、同じアカウントに公表前の生徒会役員選挙の結果についての投稿があったことだそうで、そこから教職員が投稿しているのではないかと話題になったそうだ。11/28に、中傷された生徒らから書き込みについて聞かれると、この男性教員ははぐらかしたそうだ。生徒から相談を受けた別の教員が事実関係を確認したところ、それでも否定したそうだ。しかし29日から体調不良を理由に休み始め、その後市教委・校長らが再確認したところ、やっと事実だと認めたらしい。
 生徒らは、まず教員の問題行動で落胆させられ、更にその後の往生際の悪さで再び落胆されられたことだろう。個人的にも、あまりのどうしようもなさに驚くばかりだ。


 まず最初に一応書いておくが、家庭で教えるべきことのようなことまで何でもかんでも、学校や教員に責任を押し付けるような昨今の風潮は好ましいとは思えない。ネットとの適切な付き合い方も、勿論学校でも教えるべきことではあるが、学校や教員が生徒一人ひとりのそれについて常に注意を払うことはあまりにも負担が大きいだろうから、基本的には家庭・保護者が最も注意深く見守る必要性があると考える。各家庭で個別にネット利用について話あったり、それぞれの家庭でその子どもにあったルールをつくるなどの対応が重要だと考える。
 しかし、当然教員も生徒に指導する立場なのだから、情報処理に関する授業の担当教員でなくとも、適切なネット利用の知識を最低限は持ち合わせておく必要がある。というか、この件に関して言えば、教員とか教員でないとか関係のないレベルで、確実に問題のあるネット・SNSの利用をしていたことは明白だ。何故なら、例えば生徒を装って不適切なツイートをしていたのが、教員ではなく同級生の保護者だったらどうだろうか。教員だった場合ほど騒ぎは大きくならないかもしれないが、問題視されることは確実だ。場合によっては、中傷を受けた生徒の両親から何かしらの訴えを起こされる恐れだってあるような話だろう。教員でなくとも問題になるのに、生徒の手本に率先してならねばならない教員が、こんなことをしていたのなら報道されても仕方がない。
 
 更に”いじめ”という観点で考えれば、問題性はさらに大きくなる。これだけ、いじめがいつまでもなくならないと問題視されているような状況なのに、教員が、しかも生徒になりすまして、特定の生徒を中傷するようなことをしていれば、いじめが解消されるはずもない。大人が、しかも生徒に最も近い大人の一人である教員がいじめを行っていた、なんてことを目の当たりにしたら、生徒らは「綺麗ごとばかり言うのが大人だ」などと感じるだろうし、この教員だけでなく大人全体への信頼感が確実に下がるだろう。
 そして、当初事実を認めようとせず、挙句の果てに体調不良などの理由で現実から逃避しようとしていたことも、生徒らの、教員や大人への信頼感を下げる要因になるだろう。なぜ、こんな人物が教員になれてしまったのか大きく疑問に感じる。

 ただ、教員採用試験で採用される人物の全てが分かるはずはないし、もしかしたら採用決定時は真っ当な人物だったのに、その後不適切な教員に変化した恐れもあるだろうから、市教委の責任ばかりを追求できないかもしれない。そして前述したように教員に様々な役割が押し付けられ、そのストレスもあって不適切な教員に変化してしまうケースも絶対ないとは言えないから、社会全体にも問題があると言えるかもしれない。
 
 この件の記事を読んで自分が最も注目したのは、生徒になりすましてSNS上で不適切な投稿したことでもなく、教員がいじめと言われても仕方がない投稿をしていたことでもなく、この件について問い詰められると体調不良を理由に休み始めたということだった。体調不良を理由に現実から逃げるという手法は、不祥事を報じられた国会議員の十八番とも言うべき対処方法であることは、誰もが否定しないだろう。要するに国民の手本であるべき国会議員の潔くない行為を一般的な大人が真似て、それを見て育つ子供の中には、大人がやっているんだから自分もと思う者もいるだろう、というように見えてしまった。
 子は親の鏡なんて言葉があるが、国会議員は国民の鏡とも言えるかもしれない。他にも国会議員の、国会議員だけでなく地方議員も同様だが、全然納得出来ないような問題行動、不適切な言動の強引な正当化は、はっきり言って日常茶飯事だ。議員の出来が悪いから国民が真似るのか、国民全体の出来が悪いから出来の悪い議員が選ばれてしまうのか、卵が先か鶏が先かは分からないが、健全な社会の為には、議員らには自らの行動に人並み以上に注意を払ってほしいし、国民の側も不適切な政治家には票を投じず淘汰していく必要性があることを強く感じてほしい。

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