スキップしてメイン コンテンツに移動
 

熊本市議・子連れ議会参加のその後


 先月、熊本市議会で、ある女性議員が子供を連れて議会に出席しようとしたことが大きな話題になった。この件については11/23の投稿で自分なりの所感を書いた。それから約3週間が過ぎたが、彼女の行為を容認する人は、熊本市議会や彼女を批判する人々はこれまでの慣例に固執し過ぎていると感じているようだし、彼女の行為に否定的な人は、議員という立場なのだからまず規則を守れと感じてるように、自分には見える。自分の受け止めは確実に前者なのだが、この件に関連した12/9の朝日新聞の記事を読むと、熊本市議会は子育てする親に対する理解が本当に低かったんだろうなと改めて感じられた。その朝日新聞の記事は「本会議中に授乳できるように、議長に配慮求める 緒方夕佳・熊本市議」という見出しだった。

 
 見出しだけを見ると、関連して伝えられた海外での状況に関する母親議員らのように、議会に出席しながら議場の自分の席で授乳をしても問題ないと認めさせた、かのように思え、個人的にはあまり適切な見出しだとは思えない。これまでは本会議中の授乳は控室で行うこととされていたようで、女性議員はそのようなことも実際要望したようではあるが、議会側が確認したのは、授乳の為に女性議員が控室へ行くなど、議場から一時離席しているタイミングで議案の表決などが行われることのないように、表決を行う際に離席している場合は、表決前に議員に知らせる、ということのようだ。
 このような確認が必要だと女性議員が判断したということは、それ程子育て中の議員に対する配慮が議会側になかったということの表れだと自分には思える。議会の対応にそこまでの強い不信感がなければ、このようなことを確認する必要はなく、実際に確認するには至らなかったのではないかと想像する。
 
 彼女の行為に対して否定的な人から見れば、「また目立ちたがり屋がパフォーマンスに走っている」ように見えるのかもしれない。自分もパフォーマンスである側面も確実にあるとは思うが、子育てに不寛容な状況を変える為にはパフォーマンスも必要だろうとも考える。
 この件へ否定的な人たちの中には、「子育て中の子を連れて議会へ出席してもよいなら、介護中の痴ほうを患った親も連れてきてよいのか」などと言う人がいるようだが、自分は介護士の手配が急につかなくなったなどの場合は、周辺の人々が積極的に協力するべきだと思うので、他に方法がないなら連れてくることも容認するべきだと思う。そもそも、育児中の子どもを連れて日常的に出かける親はそれなりに多いが、介護中の親を日常的に連れて外出する人はそれほど多くなく、散歩や通院などを除けば、積極的に外出することは少ない。にもかかわらず育児中の子どもと同列に考えることは適切とは言えないと自分は思う。だから、日常的に介護中の親を連れてくるというのは考え難い状況だが、それでも突発的に連れてくる以外どうしようもない事態になることを考慮して、連れてこられても対応出来る環境を準備しておくべきだと思う。介護離職を減らそうというのが社会的な目標になっているのだから、議会などは積極的に対応するべきではないだろうか。
 
 また、そのような話を更に発展させ、「育児中の親や介護に関わる必要性のある人は欠席も多くなるだろうし、議員の役割を全うすることが難しく報酬泥棒になりかねないから、そもそも立候補するべきではない」というようなことを主張する人もいる。自分は「恥ずかしげもなく、よくもそんな事が言えたものだ」と感じる。何故ならそのような主張は、言い換えれば「育児中の親や介護中の人間は政治に関わるな、自重しろ」と言っているようなものだからだ。議会には様々な見解をもった人が参加しなければ、一部の人の利益に偏った議会運営がされかねない。日本では国会議員の中から行政府の長・総理大臣が選ばれるのだから、一部の人の利益に偏った政権運営がされかねないということにもなるだろう。育児中の親の見解を最も代弁できるのは、育児中の議員だろうし、介護中の人間の見解を最も代弁できるのは、介護中の議員だろう。要するに、そのような人は議員に立候補するなということは、育児中の親や介護中の人間の話など聞く必要はないと言っているようなものだ。それで公平とか平等とか言えるだろうか。自分には偏った考えでしかないと思う。
 
 しかし、確かに育児や介護を理由に議会を頻繁に欠席されるのでは、確かに報酬泥棒にもなりかねない。だから、立候補するなら両立出来るという信念を確認してからにして欲しいとも思う。ただ、両立する為には個人の決意だけでは限界がある。周囲の協力も不可欠だ。周囲とは家族だけでなく、議会の柔軟な対応・協力、社会全体の意識改革も必要だと思う。熊本市議会の件では、女性議員は子育てする議員への対応や配慮を求めた当初、「議員だけを特別扱いするわけにはいかない」と議会側に言われたそうだが、逆に言えば議員だけを特別扱いせず、子育てする誰もが、又は介護する誰もが特別扱いされるような状況にするべきで、子育て中の親が傍聴しやすい仕組みを作ったり、議員以外の職員なども利用できる子育て・介護補助の仕組みを作るべきではないだろうか。議会が率先して議員に限らず特別扱いをして、社会全体の手本になるべきなのではないだろうか。そのような対応がなされれば、育児や介護を理由に報酬泥棒になる議員なんていなくなる、というか仕事に専念する環境が用意されるのだから、報酬泥棒など出来なくなるのではないかと考える。議会や役所の仕組みを充実させるだけでは市民の共感は当然得られないだろう。市民の共感を得る為には子育てや介護に関する政策を、同時に手厚くする必要がある。

 勿論不正を行う議員には厳しく対応するべきではあるだろうが、基本的には、否定的に考えて対応するよりも、肯定的に考えて対応しなければ、今ある慣例や固定的な観念に基づいた悪い状況が改善することは出来ないのではないかと自分は思う。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。