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続・阿蘇山噴火と伊方原発の関係について考える


 昨日・12/14の投稿では、広島高裁が示した伊方原発運転差し止め仮処分を認める決定についての個人的な所感を、その日の朝のMXテレビ・モーニングCROSSに寄せられていた視聴者ツイートに反論する形式で書いた。今朝のモーニングCROSSでは、コメンテーターの石川和男氏が「司法(裁判官)は”万能”か」という見出しを掲げ、この件に関する彼の受け止めを論じていた。
 その内容は自分の昨日の投稿とほぼ正反対の内容で、阿蘇山噴火で発生する火砕流が伊方原発に到達するかもしれないという、数万年に一度あるかどうかのことが原発の稼働期限までに起こる恐れを考慮して運転を止めるよりも、今は原発を動かすことでコストを圧縮し、その浮いたコストで避難計画を充実させるなどの方が社会全体に有益なのではないか、そして原発再稼働については、原発の地元住民が選んだ周辺自治体の首長(政治・行政)などが容認し、原子力規制委員会(専門家)も調査・研究の結果として再稼働を容認したのだから、原発の専門家でもなく、地元住民でも彼らによって選ばれた代表でもない裁判官(司法)の判断がそれを覆すのは行き過ぎではないのか、というような趣旨だった。

 
 彼はそのような根拠で、「司法(裁判官)は”万能”か」という見出しを掲げたのだろう。ならば、自分は彼に「政治・民主主義、そして科学も”万能”ではないのではないか」と問いたい。自分がそう聞いてみたくなる理由は昨日の投稿で詳しく書いたので、ここでは掻い摘んで書くが、私たちは福島の原発事故で、日本では対策は充分で原発事故は起きるはずがないという、所謂安全神話が真実ではなかったことを思い知らされたはずだし、想定では起きないとされていた規模の津波が押し寄せたことや、それ以外でも何十年に一度などの表現が用いられるような規模の異常気象・自然災害が近年多発していることで、自然は人間の想定を超えてくるということも改めて思い知ったはずだ。また、一度原発で事故が起きれば、影響の深刻な周辺地域は何十年も人が住めなくなるということも思い知ったはずだ。
 このようなことを考えれば、民主主義的な方法で選ばれた首長(政治)も、一般人よりも確実に知識があり、綿密なシミュレーションを行っているとされる専門家(科学)も決して万能ではない。そのような人々の判断ミスが幾重にも重なったことで起きた事故は、福島の事故以外にも複数あるのではないか。
 
 しかし一方で、彼が主張していた、「今は原発を動かすことで発電コストを圧縮し、その浮いたコストで避難計画の充実させるなど、の方が社会全体に有益なのではないか」という話も理解出来なくはない。但し、長期的に見てもコストが本当に圧縮できるのかについては昨日の投稿でも書いたように不透明だし、浮いたコストが本当に原発運営の適正化に投入されるのかも定かでない。政治や電力会社を性善説で捉えれば、そのような方向で事が進むとも思えるが、そこへの不信感を感じる理由は複数ある。福島原発事故の際の政府や電力会社の不誠実な対応、高速増殖炉もんじゅのあまりにも杜撰な管理、これまで、そして今後の原発稼働で発生する放射性廃棄物の処理方法の見通しが立たないのに再稼働を進めようとする姿勢などだ。
 このような根拠を示しても、「原発利用を全て止めて廃炉にするにしても莫大な費用が必要だから、それをどうにか捻出する為に、そして放射性廃棄物を処理するにしても原子力技術の発展が必要で、その為には原発再稼働は必要不可欠」という主張で反論する人もいるだろう。しかし、市販される自動車に欠陥が見つかれば、一度販売を停止したり回収するなどして、欠陥が改善されてからでなければ販売再開は認められないだろう。例え自動車会社がそれが理由で経営破綻しようがそれは変わらないと思う。なのになぜ原発に関しては、危険性も後処理も解決できておらず、管理・運営する機関の信頼感も回復していないのに、とりあえず動かそうとなるのだろうか。原発だけは話が別だというような考えには、全く同意することは出来ない。
 
 こんな理由で、今朝モーニングCROSSで示された石川氏が見出しに掲げた「司法(裁判官)は”万能”か」については、裁判官は決して(能力的に)万能ではないと自分も思うものの、石川氏の掲げた見出しは話の内容を適切に表現するものではないように思え、彼の主張の内容には、自分はやはり賛同できなかった。

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