今朝・12/2のNHK・週刊ニュース深読みでは、「もう限界!悪質クレーム お客様は神様?それとも... 」と題して、悪質クレーマーについて特集していた。一応、店や商品の販売元企業などのクレームを受ける側の質が以前より落ちている、質云々ではないにしても、余裕がなく冷たく感じられる対応が増えているのではないか、という懸念もある程度示してはいたが、番組全体の論調としては、もしそうだとしても、必要以上に過大な金銭・見返りの要求をしたり、行き過ぎた暴言・罵倒が許されるはずもない、というものだった。番組に出演していた有識者の見解では、恐喝や脅迫に該当する恐れのある行為に至る悪質なクレーマーの絶対数は、そこまで多くはないということだったが、それに準ずるような、適切とは言えない根拠で同調圧力を一方的に振りかざす人はそれなりに増えているのではないかというような話だった。
あくまで個人的な見解だが、自分がバイトや社員として接客業に携わっていた10-20年前も、一定の割合で理不尽なことを言ってくる客は居たし、中には警察を呼ぼうかと思うほど酷い客もいた。自分が小学生だった頃にも、飲食店などで店員を些細な理由で怒鳴りつけている客を見たことはあるし、悪質クレーマーが増えているのではなく、ネットが普及したことで理不尽なクレームを受けた店員などが、それを外部に伝えやすくなっただけではないのか、言い換えれば、悪質クレーマーの見える化が進んだだけではないのかと感じている。
番組でも指摘していたが、店や企業に言いたい放題する傾向は、ネット上の必要以上に正義感を振りかざして他者を追い込むような風潮と似ており、そのような行為に至る動機も近いと思う。それについても、番組によれば、例えばネットニュースで取り上げらるような比較的話題になったと言える所謂炎上案件でも、炎上に加担する人は少なければ数人から数百人程度、多くても数千人が限度で、1万人を超えることは稀なのだそうだ。企業などの規模にもよるが、だいたい客(企業ではない個人などが対象の場合は元になる投稿を見た人など)の1パーセントかそれ以下程度に過ぎないのだと言う。
この程度の割合しかないなら気にかける程のことではないのかもしれない。勿論いつ何時でもクレームを付ける側が不当な要望をしている訳ではないのも事実だが、”どんな事でも万人全てに好意的に受け入れられることなどない”ということを前提に考えれば、それらの人達には商品の購入を考え直してもらうとか、利用を諦めてもらうという対応でよいのではないかと思う。
ただ問題なのは、その手の人々の声が実際より大きく聞こえがちであるというネットの特徴の存在だ。実際より大きく聞こえることが、現実社会で必要以上に強気なクレームを付けることを助長している側面はあると思う。
満足している人・好意的な人は不満を感じている人同様に、称賛をネットに投稿したり、店員・企業側に伝えてくれるかもしれない。しかし、満足とはいかなくともとりわけ不満のない人達が意思表示をするケースは確実に少ない。そしてそんな人たちが大半を占めるのが実際のところだと思う。好意的な人や不満を持つ人より絶対的に多く、大半を占めているのに、意思表示がない為に存在感が低くなるのだと思う。そのようなネットの特徴は、ネガティブな側面しかないとは決して言いない。例えば、これまで各コミュニティでは少数派だった人たちが、場所や時間を超えて同じような人に出会える機会が増えていることも、ネットのこの特徴のおかげだし、それによって今まで軽視されてきたことの重大さが分かることもある。
この、ある程度の数が現実より集まり易い・集め易いという特徴は、実際それほど多くない数にも関わらず、内にも外にも実際以上に多く感じさせるという特徴でもある。例えば、偏った主張をしていると個人的に思える百田尚樹氏のツイートには、数百の同調コメントが寄せられ、”いいね”が数千件付くことも決して珍しくない。この数は、日本で最もフォロワーが多いとされる有吉弘行さんと比べても決して少ない数字ではない、百田氏に好意的な人もそうでない人も、彼の主張に多くの反応が集まっているように見えるのではないだろうか。しかし1億人に達するとされている日本の全ネット利用者から考えると、コメント数も、”いいね”も0.001パーセントにも満たない数字でしかない。当然コメントしない人、”いいね”しない人の中にも彼に好意的な人はいるだろうが、それをどれだけ多く考慮したとしても、1パーセントを超えることは決してないだろう。分母はネット利用全人口でなく、彼のツイートを見た人で考えるべきだという指摘もあるだろうが、そもそもツイッターの特性上彼に好意的でない人は彼をフォローしない場合が多いだろうから、彼のツイートを見た人を分母とするというのは適切だとは思えない。ただ、もし彼のツイートを見た人、彼のフォロワーを分母としたとしても、コメントの割合はおよそ30万分の数百で、1パーセント未満でしかない。
要するにどこと比べるかの問題で、実際には全然”すごい多い!”状態でないことは明白なのに、多くの人は自分のツイートにコメントがついても数件、多くても十数件という場合が殆どだろうから、数百というコメントがついていると、「すごい多い!(こんなに自分と同じ考えの人がいるんだ!)」という印象を受けるのだろう。場合によっては、サンプル数の多い適切な世論調査で50パーセント以上の結果が出た場合と同じか、それ以上に感じる事もあるかもしれない。
ハフポストが11/30に、板橋区議の中妻氏のブログの「『それは子どもに一番よいことか』何度でもこの問いを繰り返すべきです。」という投稿を転載する形で掲載した。この投稿は、熊本市議が子連れで議会に出席しようとしたことに関するもので、個人的には内容には賛同できないものの、様々な見解のうちの一つと捉えれば、そんな主張があってもいいと思う。しかし自分が気になったのは投稿冒頭の、
先日の記事『子どもたちみんなのためを考えるなら、乳幼児を「議場」へ入れるべきではありません』。
炎上覚悟で書きましたが、予想以上に好意的な意見を多くいただきました。大変感謝しております。
やはり正論は理解していただけるものだと、意を強くしているところです。
という記述だ。
先日の記事というのも、この投稿同様に懸案の熊本市議に対して批判的な内容だ。前段までで述べたように、「予想以上に好意的な意見を多くいただきました。」について、”予想以上に”ということは予想が数件程度だったら、たった10件の好意的な意見が集まっただけでも”多くの意見をいただいた”と言えるわけだ。炎上覚悟で書いたそうだから、彼も好意的な意見が集まらないと予想していたのだろう。もし、実際に数千件程度の、決して少ないとは言えない好意的な意見が集まっていたのだとしても、この話題は国外でも注目されていたようだが、日本人以外の声が集まっていなければ、井の中の蛙的なものの見方である恐れもある。日本で起きた案件なのだから、日本人の視点が最も重要であることは確かなのだが、たとえ国内からは好意的な意見が集まっていたとしても、いざ国外から見たら「日本人って変だよね」と見えているかもしれないということも考慮する必要は、たとえ彼が一地方議員の立場だとしても、あるのではないだろうか。自分には検証する余裕も手段もないが、もし実際にそんな状況なのだとしたら、彼は単なるお山の大将でしかないということにもなりかねない。
そしてさらに不安を覚えるのが、最後の「やはり正論は理解していただけるものだと、意を強くしているところです。」という一文だ。正論とは一体なんだろうか。”正しい言い分・主張”ということだろうが、正しさとは誰の考える正しさか。絶対的な正しさなどそれほど多く存在しないだろう。ましてこの件に関しては、市議の行為に対して肯定派と否定派に分かれているのだから、肯定派から見れば彼の主張は正論でもなんでもない。曖昧な定義でしかない”多く”の好意的な意見が集まったことで、自分の話を正論と言い切るようなことを議員・政治家がするべきだろうか。もう少し言葉選びに注意を払うべきなのではないかというのが自分の感想だった。