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座高測定廃止とブラック校則と憲法改正


 NHKの番組「チコちゃんに叱られる」。子供が感じるような素朴な疑問の中から、多くの大人が正確に答えられないようなものを選んで解説する内容の、所謂雑学バラエティだ。最初の放送は2017年の3月だった。12/27に最新の第3弾を放送する予定なのだが、8月に放送した第2弾の再放送が12/23に行われた。恐らく第3弾の番宣的な意味合いもあったのだろう。その第2弾で取り上げた疑問の中に、「座高は何故測定されなくなったのか」という疑問があった。
 昭和、と言うか、座高測定が廃止されたのは2016年3月だそうだから、2016年度卒の平成中期生まれあたりまでは、学校の健康診断・身体測定で座高測定があるのは当然で、年齢が高ければ高い程、廃止されたという話を聞いて驚くことだろう。座高測定が廃止された理由は、結論から言えば、「意味があるのか分からない事をしていたから」ということらしい。要するに座高が測定されていた理由は長い間「ただ何となく」だったということのようだ。

 
 番組によると、座高測定が始まったのは1937年・日中戦争開戦前後だそうだ。当時、内臓が発育している=座高が高い、と考えられていたそうで、また、内臓が発育している=兵士の適正が高い、とも考えられていたそうだ。要するに徴兵の為のデータ収集という理由で測定が行われたようなのだが、座高測定は徴兵が必要なくなった戦後も行われ続け、しかも、座高が高い=内臓が発育している、を裏付ける研究結果も一向に示されることはなかったが、それでも測定は続けられたそうだ。
 測定が続けられてはいたものの、前述のような理由で測定に疑問を呈する声は方々にあったようで、1987年にやっと文部省の調査研究委員会でその必要性が検討されることになったそうだ。しかし、戦後、座高が一貫して低くなっている傾向、即ち子供の脚が年を追うごとに長くなっている傾向が座高測定によって読み取れるということで、そのデータを何かに活用できるのではないかと、”とりあえず”そのまま測定を続けることになったらしい。
 2013年に座高測定の必要性が再び検討されることになり、以前は行っていた胸囲測定も、データ収集の必要性の低さ・女子生徒が測定を嫌がるなどの理由で1994年に廃止されていたことなどを勘案し、座高測定もとりあえず測定続行となった1987年以降も結局データ活用がされていなかったこと、座高測定は脚が短いとバカにされることを懸念する子供、特に男子生徒が嫌がったり、座高を低く見せようとして測定に手間がかかることなどが理由となり、2016年3月に正式に廃止となったそうだ。
 最初に迷信のような根拠と戦争の為という理由で測定するというルールが決まり、測定の根拠も理由も失われたのにルールだけが残り、言い換えれば独り歩きし始め、意味があるのか分からないことが、そのデメリットを考慮することもなく、78年間も続けられたということだ。
 
 これを見ていて感じたのは、10/28の投稿でも取り上げた、大阪の公立高校で行われていた黒染め強要に対して生徒が訴訟を起こしたことで、一気に注目が集まりその是非が問われている所謂ブラック校則・必要性が感じられないのに一方的に強要される理不尽な学校のルールと、とてもよく似ているということだ。
 自分が通っていた中学校には、バスケットシューズのような踵の高い運動靴を学校に履いてきてはならないという、存在理由がよく分からない校則があった。例えば、身だしなみとして革靴での登校が義務付けられ、運動靴は体育以外での着用を認めないなどの校則ならまだ理解できるが、その中学では革靴での登校も禁じており、運動靴で登校することという校則もあった。自分は何故そのような校則があるのかを疑問に思い、教師の何人かに尋ねたが、誰一人適切に答えられる者はいなかった。殆どの教師は結局最後は「きまりなんだからとりあえず守れ」という話しか出来なかった。ただ、一人だけ「もしかしたら踵を潰して靴を履くのはみっともないし、走った時に転んで怪我をするかもしれないから、履くのに手間がかかり、踵を踏んでしまいがちな踵の高い靴は履いてくるな、ということになったのかも」という仮説を示した先生がいた。
 確かに、そのような理由でその校則が生まれ、それを全ての教員が理解し、明確に説明できたのであれば、その校則の必要性を自分も感じることが出来たかもしれない。しかしよくよく考えれば、実際にそれが踵の高い運動靴を履いてはいけないという校則の本当の理由だったとしても、本来は「踵を潰して靴を履いてはならない」という校則を設けるのが適切で、「踵の高い運動靴を学校に履いてきてはならない」という校則は適切と言えない。しかも殆どの教師がそんな仮説すら説明出来ず、「規則だから守れ」としか言えないような状況だったのだから、「踵の高い運動靴を学校に履いてきてはならない」という校則はブラック校則に該当すると言えるだろう。
 要するにブラック校則も座高測定と同様、大した検討もないまま、根拠も明確でなく理由が適切なのかもよく分からないのに、ルールだから守れという短絡的な理由で続けられているのが大半だろう。バカげたルール・検討足らずの場当たり的なルールでも、一度出来てしまえば、少なくとも私たちの国では、ルールだからという理由で意味がなくとも維持しようという力が働き、場合によってはそれによって不利益を被る者が出てしまうという、大きな危険性を孕んでいる。座高測定には危険性と言うほど大げさな影響はなかったかもしれないが、測定によって「足が短い」などとバカにされ嫌な思いをした経験がある人は決して少なくはないだろう。確かに「足が短い」とバカにする者が悪いのであって、座高測定自体には落ち度?はないかもしれないが、データ収集の必要性は薄いのに、他人をバカにする材料を提供してしまう恐れだけはある座高測定を続ける理由は、誰もがないと感じるだろう。
 
 ルールを作る際は丁寧に検討しないと多大な好ましくない影響が出ることもある、ということが、これらの案件からよく分かると思う。日本人の誰もが守らねばならないルールの親分とも言えるのが法律であり、その法律を作る際の土台となるのが憲法だ。その憲法には国家権力の暴走を防ぐという役割もある。
 12/21の投稿でも触れたように、現在、憲法改正がとても大きな話題になっているが、首相は「オリンピック・パラリンピックが開催される2020年を「日本が大きく生まれ変わる年にするきっかけとしたい」、「新しい時代の幕開けに向けた機運が高まる時期であるからこそ、憲法について議論を深め、国の形、あり方を大いに論じるべきだ」と訴えたそうで、憲法とオリンピックには何の関連もないし、憲法改正は期限を切って議論するべきという程切迫した状況でもないし、議論の中身自体もまだまだ全然熟していないのに、相変わらず2020年に関する胡散臭いスローガンを並べて、まるで2020年が憲法改正の期限であるべきかのような発言を行い、彼の言葉を借りればまさしく”印象操作”に躍起になっている。こんな状況で、果たして適切な憲法改正が本当に出来るのだろうか。
 自分も今の憲法には既に現状に合っていない部分もあると感じるが、急ぐことよりも、法改正では対応できないのか、憲法自体の改正が本当に必要なのかの検討を丁寧に行うこと、もし改正が本当に必要なのだとしても適切な改正を落ち着いて検討することの方が確実に重要だ。まるで改正自体が目的のような改正が行われてしまえば、ブラック校則ならぬブラック憲法が国家権力から国民に強要されてしまうような、危険な状況にもなりかねないとも感じる。なぜにそんなに憲法改正を急ぐ必要性があるのか、甚だ疑問である。

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