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政治家の質を上げるには


 ある石川県・加賀市議が、ネット上で市内の飲食店の衛生管理に問題があるかのように複数回中傷し、その後その店は閉店、経営者の男性が刑事告訴するに至り、市議が名誉棄損罪で略式起訴され罰金30万の略式命令が出された、と12/5に朝日新聞が報じた。市議はこれに関して「立場を忘れ、軽はずみに行動した。個人的なトラブルがあった」と話し、議員辞職については「支持者の皆様などと相談、検討した上で考えたい」という意向を示したそうだ。
 トラブルがあったにせよ、根拠のない中傷で他人の人生を左右しかねない、店を閉店に追い込むような結果を招いた代償がたった罰金30万円足らずでは、全然事態に相応しいとは思えない。勿論、当該の飲食店が閉店した理由はこの中傷以外にあるのかもしれないし、市議はこのように報道されるなど社会的な制裁を受けているという考え方もあるかもしれない。市議会はこれから臨時の協議会で対応を決めるそうだが、辞職勧告ぐらい出さなければ、市議会自体の評価を落とすことにもなりかねない、と個人的には感じる。


 この記事を見ても個人的には驚いたということは全然なく、「またか」というのが自分の第一印象だった。汚職・金に汚い議員は地方・国政問わず昔から後を絶たないし、ここ数年間だけでも議員の失言・不適切な言動は数知れず、国会議員でもアホだのバカだのと議会ですら言ってのける者もいるし、注意を受けても悪びれず同じような言動を繰り返す者もいる。そして、そんな者に対して相応の処分をせずに公認し続ける政党もあるのが現状だ。そんな状況を考えれば、この加賀市議だけが特別に異常な存在ではなく、その程度の者が政治家になれるような時代になってしまったと考えるのが妥当ではないか。要するに国政・地方に関係なく、程度の低い人間でも政治家になれてしまう環境が出来上がっているのが現状なのだろう。

 以前も今も政治家は”先生”などと呼ばれ、ほぼ無条件に尊敬されるような存在だ。本来はそれなりの実績があったり、能力がある場合に”先生”と呼ばれ尊敬されるべきなのに、選挙に当選したこと自体が実績や能力として勘案され、選挙に当選=尊敬に値するというような認識が、少なくとも日本の社会では支配的なのかもしれない。
 しかし、選挙に当選する為に、耳障りの良い公約を並べ立てることは決して少なくない。民主党だって政権の座を獲得した際は、多くの魅力的な公約を掲げていたのに、自民党に政権を再び譲るまでの間に実現した公約は決して多いとは言えないような状況だった。また、10月の選挙で自民党は「”すべての子ども”を対象に幼児教育を無償化」などという公約を掲げていたが、先月早速”すべての子ども”が対象にはならない政策案を検討していると報じられ、やや改善を進めているようには見えるものの、結局”すべての子ども”が対象にならないことには変わりがない政策を検討しているようだ。また、都民ファーストの会は都議選で、都議の公用車利用撤廃を公約に掲げていたにも関わらず、「タクシー・ハイヤーを利用する方がコストが膨らむ」などとして、公約実現を断念したようだ。そんなことすら検討もせず、耳障りが良いだけの公約を掲げていたのかと、ただただ驚くばかりだ。
 勿論このような公約は候補一人ひとりが掲げていたものではなく、党全体で掲げていた公約ではあるが、そんな党の公認を受けて候補が当選しているのだから、当然のように党にも候補にも問題があり、選挙に当選しただけで能力があるとか、当選自体が実績だとか、尊敬に値するなどと決して言えないような状況ではないだろうか。
 
 日本人全体の程度が下がっているのだから仕方のないことだ、という見解もあるだろうが、自分は決してそんなことはないと思う。政治家という職業に魅力がなくなっているから、能力のある人たちは政治家を目指さなくなっているのではないかと考える。
 民間企業でも、他国の企業に比べて日本企業は待遇が良くないと言われており、能力のある者はどんどん海外へ流出しているという話をよく聞く。政治家に対しても、議員報酬が多すぎるとか、議員特権は必要あるのかとか、増税する前に政治家・議員らがまず身を切れ、議員に年金は必要ないなどの批判をよく耳にする。確かに、適切に役割を果たしていないとか、汚職に手を染める者が後を絶たないなど、そんな批判が飛び交うこともある程度は理解できるものの、議員として仕事を全うしても報酬が高すぎると批判されかねないとか、成果主義でもないのに引退後の保障がない職業だということになれば、職業としての魅力を感じる者が一体どれほどいるだろうか。それでは本当に能力のある者が目指す職業の選択肢に、政治家が入ってくる可能性は低下するだろうし、成果主義じゃないんだから適当にやってそれなりに報酬がもらえればそれでいい、というような感覚の者が多くなってしまうのではないだろうか。結局、議員の報酬を下げろと批判することが政治家の低レベル化に拍車を掛けているのではないかとも思えてしまう。
 
 とは言っても、前段でも少し触れたように、議員や官僚、役人の立場を恣意的に利用したり、不適切な方法・または不適切な目的で政務活動費を使用する者が後を絶たない状況では、適切な報酬になるように改善しろ、という批判が噴出することも理解できるし、自分も全くその通りだと思う。
 では、一体何が問題なのかと言えば、それは議員の報酬が高すぎるとか特権が過剰過ぎるという点ではなく、議員の報酬や特権を議員ら自身で決められるということにあるのだと思う。例えば、民間企業でも経営者たちの報酬は経営者たちが大枠を検討するが、株主の承認が得られなければ、最終決定がなされず報酬を受け取ることは出来ない。政治の世界でも、選挙という方法で民間企業の株主に当たる、国民による審判が下されているというように受け止めることもできるかもしれない。しかし、自分には選挙でそのような点を重視した投票が行われているとは思えない。だから、地方・国会議員らの報酬・手当が妥当かどうかを検査する独立した機関が必要なのではないかと考える。要するに行政機関に対する会計検査院のような存在が立法機関にも必要だと感じる。
 本来は、行政・立法・司法が三権分立でお互いを監視・牽制しあうことで、適切なバランスが保たれるべきなのかもしれないが、日本の仕組みでは立法機関から行政府の長・総理大臣が選出される為、その二つは限りなく一体感が高い存在になっているし、司法府の長・最高裁判官も行政の長によって任命されることから、行政に対して強く牽制し難い環境を強いられているとも言える。そんな状況では司法が立法機関内の不適切な部分を指摘出来るとは考え難いので、やはり前段で触れたような、立法機関への監視を独自に行う存在も必要だということになるだろう。
 
 勿論、国民がもっと政治に関心を持ち、政治家の不正に対しては批判を、成果には称賛を伝え、適切な報酬を妥当な政治家・議員に与えることを推進することも必要だろう。毎回国政選挙の投票率はおおよそ50%台、地方選挙では20%台なんてこともしばしばあるようでは、不適当な者が政治家になるのを市民・国民が間接的に助けているとも言えるような状況でもある。
 確かに政治家の不祥事を毎度のことのように聞かされたり、納得のいかない説明で有耶無耶にされるようなことばかりで、うんざりさせられるのも分かるし、自分も同じように感じることは多々ある。しかしそれでも自分たちの生活に直結することなのだから、嫌な話でも決して目を背けてはならない。そしてそんな気分に引っ張られて、不適切な政治家だけを基準に、議員の報酬・待遇を有無を言わさず下げろ、などと言わないようにしなけらばならないとも思う。
 適切な対価が得られないようでは、能力のある者は政治家を目指そうとは思わず、それは能力の低い者でも政治家になれる隙間をつくることにもなり、そんな者でも政治家になれるようなら、結局私たちが納める税金が無駄遣いされる恐れを高めることに繋がってしまう。”損して得取れ”という言葉に当てはめて考えるべきだ。また、勘違いした平等感や、「政治家は報酬目当てでなるものではない」などという理想だけを優先することは、自分たちの為にならないことを私たち一人ひとりがしっかりと認識するべきだ。

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