BuzzFeed Japanが、昨年のWELQ問題で火が付いたネット上に蔓延する不正確な医療情報について、2つの記事を掲載している。一つは12/7に掲載した「Google検索から不正確な医療情報が消える『前代未聞の規模』」という見出しの記事で、Googleは日本で表示される健康・医療分野での検索結果において、WELQのような質より量を重視したサイト・言い換えれば情報の正確さが適切に担保されていないサイトの表示優先度を下げ、公的機関のサイトなど正確性が担保されている可能性が高いサイトが、まず検索結果の上位に表示されるようなアップデートを行ったという記事だ。
果たしてGoogleが適切な基準でサイトの評価を行っているのか、という懸念がないわけではないが、明らかな嘘やデマを含むサイトが検索結果の上位に表示されており、そのようなサイトがページビューを集め収益を上げ、それを手本にした同じ手法のサイトが収益目当てで乱立していたこれまでの状況を考えれば、検索結果の上位にそれらのサイトを表示し悪循環の一端を担い、更に場合によってはそれらのサイトに広告を提供する側でもあったネット広告仲介大手という側面もあるGoogleとしては、流石に我関せずでいることは出来なかっただろう。もしGoogleがこの問題に関して消極的な態度を取り続ければ、遅かれ早かれ責任を厳しく追及される破目になっていたはずだ。
BuzzFeed Japanの記事でも指摘しているように、これで「すべてが解決されたわけではない」ことも事実だろうが、以前の状態に比べれば状況がマシになったことは確実だ。
もう一つは東京工業大学の社会学者・西田亮介さんへのインタビューをベースに書かれた「『医療デマ』対策に『リテラシーを身につけよう』は有効なのか」という記事だ。記事はWELQ問題に端を発するネット上の医療情報の不正確さに関する問題に関する西田氏の考えというような体裁で書かれてはいるが、実際は医療情報に限らずネット上の情報全てに当てはまる話で、医療デマに限らずネット上の不正確な情報の対策として、リテラシー=情報を吟味する能力を身につけよう、と啓蒙することは、その有効性に限界があるのではないか、という話の記事だ。西田さんによれば、リテラシーが上手く機能しない理由は3つあるそうで、それは、
- ネットの発展と普及により、情報量が激増
- スマートフォンなどの普及により、情報との接触頻度も激増
- その一方で、メディアに対する人々の信頼(特にマスメディア)は急落
だそうだ。ネットが普及する以前は、人々が情報を手に入れるのに使うのは紙媒体かテレビやラジオの放送だったが、ネットや、PC・スマートフォンなどの情報端末が普及発展した結果、全体の情報量も、個人が触れる情報量も激増し、情報の正確さの確認は個人レベルでは追い付かない状況なのに、これまで情報が正確か否かを判断す際に大きな基準とされていた、そしてネット普及以前は信頼性の高い情報源とされていたメディア(マスメディア)の信頼性が低下しており、2重の意味でリテラシーが発揮され難い環境が出来上がっているということだろう。
リテラシーを発揮するには、ネット普及以前だって手間と時間が必要だった。しかし個人が触れる情報がそれなりの量に限られていれば、対応できる人の割合は決して少なくなかったのだろうが、正確さが担保されない情報があまりにも多くなった現在は、全ての情報について確認している時間的な余裕など、一般人には当然ないし、かかる手間に労力を割く余裕もない、言い換えればリテラシーを発揮できる人の割合は相対的に低下し、自分の信じたいことを、よく考えることを省略して信じるようになる人の割合が増えるのではないか。というのが西田さんの言いたいことなのだと自分は感じた。
この話は、11/28の投稿で触れた「国会審議を、最も重要な予算委員会だけでも、最初から最後まで満遍なく目を通せる余裕のある人など、社会人の中には殆どいない」という話と、とてもよく似ているように思う。確かに何気なく検索したネット上の情報を、常に正確かどうかを確認しながら見ていたら時間はいくらあっても足りない。毎日時間を持て余している人なら足りるかもしれないが、長時間労働が常態化し、休みも適切に取れないような社会状況の中で、一体どの程度の人がそんな余裕を持てるだろうか。こんな状況でリテラシーを身につけようという啓蒙を行っても、中々上手くいかないのは目に見えている。どうやってこの問題に対処するのが望ましいと西田さんが考えるか、は記事ではその後に続けられるのだが、それについては直接記事を読んでほしい。
自分がこの記事を読んで感じたのは、
ネット上で不適切な主張がなされていても、それを行っている人は、それに対する反応が示されることを目的としている場合が多く、わざわざ反論することは結果として彼らの目的達成に加担し、不適切な主張がされることを助長しかねないのだから、無視するのが最も有効な対応である
という、所謂スルースキルが重要だという話が以前は主流であったが、スルーし続けてもその類の人たちは、反応がなくても反応を求め続けて不適切な主張を続ける者もいるだろうし、中には彼らに対して肯定的な態度を示す者もいるだろうから、違和感を覚えた者が無視して反応しなかったとしても、その手の主張が淘汰されるとは限らないのではないか、そして更にそれに感化された者が似たような主張をし始めるという悪循環が生まれているのが今のネット社会ではないか、ということだった。
スルースキルとは、不適切な言説は時と共に淘汰されるという考え・性善説のような考えに基づいて言われていたのだと思うが、実際は、適切だろうが不適切だろうがビューさえ集めれば収益化できるという状況が支配しており、淘汰されるどころか逆に蔓延している。やはり「おかしいものはおかしい」と言わなければならないのではないだろうか。
リテラシーを身につけようという啓蒙は本当に有効か、という視点とは少し異なる視点かもしれなが、ネット上に不正確な情報が蔓延らないようにする為には、これまで有効だとされてきたスルースキルなるものも見直す必要性があるのではないかと自分は考える。 これも結局はリテラシーと同様に、全ての不適切な主張のおかしさを丁寧に説明している余裕のある人は確実に少ないとは思うが、何もしないのでは状況は確実に良くならない。また、「おかしいものはおかしい」という場合でも、丁寧な話をせずに不適切だとだけ指摘しても理解はしてもらえないし、傍らから見ている者には同レベルの不毛な罵り合いにしか見えないだろう。どんなことがあっても相手と同じレベルに成り下がることだけは避けなければならない。どんな相手に対しても丁寧な議論をする姿勢を見せることは最も重要なことの一つだ。