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MeTooの現状


 今年・2017年の10月にハリウッドの大物プロデューサーの信じがたいレベルの恒常的なセクハラ・パワハラが、複数の被害者が声を上げたことで明きらかになり、アメリカに留まらず世界各国で、同じような被害経験を告白するのにMeTooというタグを使用する動きが急激に盛り上がりを見せた。今年日本では、それ以前から伊藤詩織さんがレイプ被害を訴えた事に注目が集まっていたので、MeTooタグへの注目で急にセクハラ・パワハラに対する関心が集まったわけではないが、12/19の投稿でも触れたように、はぁちゅうさんの電通時代の経験を告白する記事が17日に公開されたことでさらに注目が高まり、その後様々な意見が繰り広げられている。
 はぁちゅうさんの記事を掲載したBuzzFeed Japanは、それ以降もいくつか関連する記事を掲載しているが、24日にも、「#MeToo が嫌いなあなたへ」と題した元アナウンサーの小島慶子さんが書いた記事と、「はあちゅうと #metoo への批判 ハラスメント社会を変えるために共感を広げるには」という見出しの、これまでの流れをまとめた記事を掲載した。

 
 24日に掲載された2つの記事は共に、感情的になり過ぎたり極端になり過ぎて、男は総じてこうだとか女は総じてこうだなどと、一括りにして言い合いをしても結局問題解決には全く繋がらない、ということを、結論としては言っている記事だと自分は感じた。両方の記事にそのような自分の受け止めをコメントとして書いたのだが、「はあちゅうと #metoo への批判 ハラスメント社会を変えるために共感を広げるには」には、以下のような少し長めのコメントを書いた。


今まで声を上げにくかったセクハラ・パワハラ被害者が、MeTooというタグによる運動で声を上げやすくなったことは、明らかに大きな意味のあることで、状況の改善には確実に必要なことだった。自身の体験を名前や顔を明かして告白している人たちの行動は、これまで被害にあったことがあるが、様々な都合で告白出来ないでいた・いる人たちを、確実に勇気づけているだろうし、これまで加害者だった者たち、今後の加害者予備軍に、そんなことをし続ければそれなりのリスクがあるということを認識させ、断罪には至らなかったとしても、今後似たような事が起きることを抑制するという意味ではとても意義深いことだと考える。

しかし、どんなに素晴らしい事も、ネットのような匿名性が高い環境では特に、それに乗じて行き過ぎる者、拡大解釈し始める者が出ることがある。過剰な主張ぐらいで済んでいるうちはまだいいのかもしれない。極少数かもしれないが、気に入らないヤツを陥れようと、嘘をつく者が出てくる恐れが絶対ないとは決して言えない。MeTooタグが注目される以前の話だが、女性専用車両が出来るなど、痴漢問題への注目が高まった頃、示談金目当ての痴漢でっち上げ事件が起きたという報道は、実際にいくつかあった。今はMeTooの動きの中でそのようなことが起きたという記事を見かけた記憶はないが、記事でも懸念が紹介されているように、そのような好ましくない者が万が一現れ、無視できないような事態になってしまったら、MeToo自体を批判する動きが急に強まる恐れもあるだろう。
 流石にでっち上げを行ったなんてケースはまた別の問題として認識されるだろうし、でっち上げ事案とMeTooの動きを一緒くたにして批判するような行為も確実に適切と言えないだろうが、過剰な主張に感化された者が、感情的になった挙句、でっち上げに走るなんてこともあるのかもしれない。もしそうなってしまったとして、それは本当に望ましい結末なのだろうか。そうなれば、MeTooの動き自体は正しいのに、結局セクハラ・パワハラの問題は解決に近づかないということにもなってしまいかねない。間違った主張を根拠にセクハラ・パワハラを正当化しようとする者が付け込む隙は極力小さくしておくべきだろうから、MeTooを背景にした過剰な主張は確実に控えた方がよいと言えるだろう。

 また、この記事で紹介されている渡辺由佳里さんの主張のような、些細な童貞いじりも絶対的悪であるかのように語るような論調、アメリカでもしそのような認識が一般的だったとしても、童貞いじりに限らず、例えば少し前に話題になったダルビッシュ投手に向けられた、キューバ人選手の釣り目ジェスチャーのような程度のことまで、(もちろん不快感を示すこと自体は何も問題はないが)必要以上に目くじらを立てて騒ぎ立てるなど、些細なことまで絶対的に触れてはならないタブーに追加していくことは、副作用として気軽なコミュニケーションを委縮させてしまったり、場合によってはコミュニケーションが減る事によって考えの異なる者同士の溝を余計に広げる恐れもあるだろうから、あまり好ましいとは感じられない。
 冗談を隠れ蓑にした差別や不当な要求・中傷が行われることは決してあってはならないが、一方で冗談が全く言えないような社会は閉塞感が強すぎて息苦しく感じられるだろう。何事もバランスが重要で、ケースバイケースの判断が必要だ。勿論誰もが同じ考えではないから、適切な意思疎通がなされず、軋轢が生まれることも考えられるが、それでも臭い物に蓋するように、細かいことまで全てが全て不適切なんて言うことを、自分は正しいとは思えない。蓋された容器の中で臭い物の腐敗が進み、爆発して状況が悪化する(あれもこれもタブー化した結果、考えの異なる者同士の不信感が不必要に高まり、お互いに罵倒し合ったり差別的な感情が激化してしまうような)ことは誰も望んでいない。

 このように書くと極端な人は、「結局お前もセクハラ野郎で、単に正当化したいだけだろ」的な反論をしてくることがある。セクハラ・パワハラに対する強い憤りは理解するが、そんな風に見ず知らずの相手を罵っても何も解決しない事だけは理解して欲しい。

(コメントここまで)
 
 このコメントは24日の2つの記事を読んで感じたことを書いたが、実は、22日にBuzzFeed Japanが掲載したセクハラ関連記事・「忘年会で『アキラ100%』はやっちゃダメ! セクハラに詳しい弁護士に聞いた」があったこともその前提になっている。詳しくは記事を読んで欲しいが、要約すると、職場の忘年会などでは、嫌でも嫌と言えないことも多いからそんなことにも配慮することが重要で、裸芸のようなことは止めるべきという話だ。自分はこの記事を読んで、見出しがその印象を際立たせているのだと思うが、弁護士が「アキラ100%の真似はどんな状況だろうが、どんな人間関係があろうが絶対やってはならない、犯罪にも近い行為」と言っているように感じられてしまった。勿論記事に登場する弁護士は、セクハラに該当する強い懸念を示しているだけで、前述のような明言もしていないし、絶対的に不適切な行為と断言もしていない。また、自分も彼の真似はセクハラに該当してしまうケースの方が確実に多いと感じている。だが、自分が感じたのと同じように「どんな場合だろうが関係なく絶対的に不適切」という印象を感じる者は少なからずいるだろうし、中にはその影響で、異論に対して攻撃的で極端な主張をする者もいるだろうと懸念した。だから自分はこの記事に、「法律家が絶対悪であるかのように語るのは少し危険なことではないだろうか」という思いを込めて、


>忘年会で「アキラ100%」はやっちゃダメ!

と言う見出しに違和感を覚える。確かに概ねセクハラに該当するケースの方が
多いであろうことは自分も想像できるが、あくまでケースバイケースで、
セクハラになってしまうような人間関係の職場もあれば、
セクハラでなく、単なる悪ノリと受け止められる人間関係の職場もあるだろう。
なのに「やっちゃダメ!」と絶対的にアウトかのように表現するのは
如何なものか。

>公然わいせつ罪に問われかねません。

そりゃ会の参加者以外もいる居酒屋などならそれもあり得るが、
個室だったり、カラオケボックスだったりなら、そうならない場合もある。

確かに昨今のセクハラに関する風潮、タイミングを考えれば、
やるべきでないと忠告しておくことの方が重要かもしれないが、
それでも絶対悪かのように語ることは如何なものだろうか。


とコメントした。
 すると、予感は的中と言うか、案の定と言うか、「お前もセクハラ野郎だろうから単に正当化したいだけで、その為にそんな事を言っているんだろう、だからいつまで経ってもセクハラがなくならないんだ」と言いたげな、


全然理解されてないんですね。
あなたはみたいな人達が、被害者が声をあげれない社会を作っているということにいい加減気付いた方がいいですよ。
それともあれですか、こういうことに覚えがあるから否定でもしてるんですか?
馬鹿につける薬は無いのだけが残念です。


という返信があった。文末でこの人は「馬鹿につける薬は無い」などと述べ、見ず知らずの間柄にも関わらず、自分に対して馬鹿呼ばわりしている。この人が自分と異なる見解を持っていることは何も悪いことではないし、自分の意見に対して批判的なコメントを書くこと自体にも大きな問題はない。そして、セクハラ・パワハラに対して強く憤っていることも理解できる。だが、見ず知らずの人間を馬鹿呼ばわりすることも、セクハラ・パワハラと似たり寄ったりレベルの言動にしか感じられず、それでは適切な議論など出来るはずがないし、単に憂さ晴らしがしたいだけのようにしか思えなかった。
 
 こんな主張をするタイプの人を想定して、24日の記事に書いた、前述の長いコメントの中で、

どんなに素晴らしい事(ここではMeTooタグを利用してセクハラ・パワハラを解決しようという動き)も、ネットのような匿名性が高い環境では特に、それに乗じて行き過ぎる者、拡大解釈し始める者が出ることがある。過剰な主張ぐらいで済んでいるうちはまだいいのかもしれないが、

と書いた。自分は12/19の投稿では「被害を告白した者を不適切な根拠で中傷する者がいる。そんなのは無視しておけばよいという人もいるが、無視しているだけでは状況は改善しない」と、セクハラした者より被害者側を強く批判する事に対しての違和感を強く示したが、今日の投稿では、逆ベクトルでの行き過ぎ傾向もあることを書いている。
 多くの人が望んでいるのは、究極的にはセクハラ・パワハラをした者の断罪ではなく、今後同様の行為が行われなくなることだろう。その実現の為には抑止力を高めることが必要だから、加害者を実名で公表したり、事実を認めさせることが必要になるのだと自分は思っている。そう考えているので、今後セクハラ・パワハラ問題が解決(完全に無くなすというような夢物語でなく、問題が起きた際に周囲が適切に対応・判断できる環境が整うということ、それによって問題が最小限に収められること)に向かう為には、前述のような極端で感情的になり過ぎた主張でセクハラ認定しようとする者も、セクハラを不適切な根拠で正当化しようとする者と同様に、それを妨げる要素の大きい存在であると自分は考える。
 セクハラ・パワハラに強く憤るあまり、感情的になり過ぎ、結局問題解決から遠のくようなら、それは本末転倒ということになる。そんな人と、「自分(主に男性)も別のことで異性から嫌な思いをさせられることは多々ある。だからお前もつべこべ言わずに我慢しろ」というような、逆方向に過剰な人が、お互いに感情をぶつけ合うだけでは何も解決しない。それを示唆しているのが、BuzzFeed Japanが24日に掲載した2つの記事だと思う。特に小島慶子さんの書いた記事はそれを強く示唆している、と自分は感じる。

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