昨日・1/1元旦の投稿を書きながらあることを思い出した。昨日の投稿は差別用語についてのハフポストの記事に、投稿したコメントがFacebookの規約に反するとして削除されたのは納得がいかないという内容だった。削除された顛末は昨日書いた通りなのだが、自分のコメント内容は端折って説明すれば、
差別用語の多くは元々差別的なニュアンスを持たないが、用いる人が込めるニュアンスや、用いる人がそのようなニュアンスを込めなくてもコミュニケーション不全によって、受け手側が差別的なニュアンスを感じてしまうことで、徐々に差別用語化したものだ。だから差別用語に該当するかどうかは人によって感じ方が違う。なので考えが違う者通しが尊重し合って話をする必要がある」
という趣旨だった。
自分がここから何を思い出したのかと言えば、それは小学校1年生の頃の経験だ。当時の同級生・田中(仮)君は忘れ物、いたずらなどで先生に怒られると、いつも不満げに口を尖らせる子だった。彼が何故そのような、まるで漫画のような態度を示すようになったのか、それがテレビの影響なのか、家族の影響なのかは分からなかったが、誰がどう見ても叱られたことに「チェッ」と舌打ちしているのと同じように見えたし、先生はその態度についても、いつも注意していた。それでも毎度同じように口を尖らす彼に、先生も業を煮やしたのか、ある日「墨を吹くイカじゃないんだから口を尖らせるな」と揶揄した。それから彼は、叱られて口を尖らせる度に「またイカさんになっている」と言われるようになった。
いつしか、先生だけでなく周りの同級生も彼をイカさんというあだ名で呼び始めていたが、自分の記憶では、その呼び名は決して彼を馬鹿にする意味合いで用いられてはおらず、勿論稀に友達通しでからかい合う際に、馬鹿にしたような態度で「イカ野郎!」的な呼び方をすることはあったかもしれないが、みんな彼と普通に遊んでいたし、多くの場合では、ある意味親しみを込めてそのあだ名で呼んでいたように思う。当然自分も彼を「イカさん」というあだ名で呼ぶことがあったが、馬鹿にしているという感覚は全く無かった。
ある日、彼は急に私のことを「りとやま」と呼び始めた。これは苗字の鳥山(仮)をもじったものだった。彼と自分は家の方向が同じで、よく一緒に帰宅していたが、彼がこの呼び方をしてくるのは大体2人で帰る時だった。自分はこの呼ばれ方がたまらなく嫌だった。嫌だと感じた理由は、彼がこの呼び方をする際にいつも薄笑いを浮かべ、まるで「このバーカ」というような口調で「りーとやま、りーとやま」と繰り返すからだった。ある日の帰りの会(帰宅前の短い学級会)で、自分は彼にこれを止めて欲しいと訴えた。先生が田中君に「何故そんなことをするのか」と問いただすと、彼は「みんなが僕をイカさんと呼ぶのが嫌だったから」という旨の返答をした。当時の自分が感じたのは、彼が本当に嫌だったからそう言ったのか、咄嗟の言い訳でそんなことを彼が言い出したのか分からないということだった。
確かに田中君が「イカさん」と呼ばれ始めたのは、彼が叱られた時に口を尖らせるからで、ポジティブな理由かネガティブな理由かを考えれば、どちらかと言えばネガティブな理由だろう。背の高い女の子の中には「ジャンボ」と呼ばれることを嫌がる子もいるし、背の低い男の子の中には「チビ助」と呼ばれることを嫌がる子もいる。勿論全然ネガティブに考えずに嫌がらない子もいるだろうが、嫌がる子をそのように呼ぶことは確実に好ましくない。そのような意味では「イカさん」という呼び名自体はそれだけで”いじめ”とか差別的と言えるような呼び方ではないが、嫌がっている相手をそう呼ぶことは”いじめ”や差別に当たる恐れも出てくる。
また、田中君が自分を苗字・鳥山をもじって呼んだ「りとやま」という呼び方も、彼が薄ら笑いを浮かべたり、「このバーカ」というような口調でこの呼び方をしなければ、恐らく自分は嫌だとは感じなかったと思う。自分は4年生の頃、鳥山達男(仮)という名前を短くした「とりたつ」というあだ名で呼ばれていたが、全然嫌でなかったし、実際にかなり定着し、今でもそう呼ぶ同級生の母親がいたりする。
冒頭で示した自分の「差別用語の殆どは、元来差別用語ではなく、その後の経緯で差別用語化する」という考えの根底には、このような経験があるのかもしれない。現在差別用語とされる文言は日本語だけでも無数にあるし、他の言語でも同じように複数存在するだろうが、どれも結局使い方・使われ方・受け止められ方によって差別用語化したのだろう。ということは、現在主に差別を表現する際に用いられている側面が強い言葉を差別用語に指定して、その使用を制限したところで、人間の感情に差別的な認識、被差別的な認識がある限り、また新しい差別用語が出来るだけで、差別を抑制するということにはあまり繋がらないようにも思える。
自分が言いたいのは「だから差別用語の使用を規制するなんて無意味だ」ということではなく、差別用語、差別的なジェスチャー、差別的な行為に過敏になり過ぎタブーを増やすことにはあまり意味がないということだ。勿論大前提として明らかに差別的なニュアンスを込めた表現に不快感を示すことは重要だ。だが、それは現在差別表現とされていない言葉であっても同じことで、勿論差別以外で用いることが想定しにくい文言もあるにはあるだろうが、この文言を使ったら有無を言わさず差別に該当するという考え方とは微妙に異なる考え方だと自分は思っている。
タブーをどんどん増やすことは、考え方が違う者同士のコミュニケーションをどんどん減らすことに繋がると思う。コミュニケーションが減れば、それだけそれぞれの間の溝は広がるだろうし、溝が深まればそれだけ差別や偏見が生まれる恐れも高まってしまうだろう。ということは、差別用語・差別的な行為に過敏になり過ぎることもまた、消極的にではあるが、差別を助長してしまう恐れがあると自分は考える。だから大事なことは差別用語を使ったと指摘して非難することではなく、お互いの間で齟齬が生じないようにコミュニケーションを深めることだと自分は思う。ネットの普及はある意味でコミュニケーションを促進した側面もあるが、言いっ放しで言いたい放題することも可能なので、ある意味では正常なコミュニケーションを阻害しているとも言えそうだ。