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続・顔黒塗り=人種差別?


 大晦日の日本テレビのバラエティ番組に端を発する、所謂ブラックフェイスに関する話。自分は1/5の投稿でもこの話に関する見解を示した。そちらを読んで貰えれば分かるだろうが、問答無用でブラックフェイス=黒人差別と言わんばかりの批判派の考えには賛同できず、「海外の事情なんて気にする必要はなく、どんどん気にせず顔を黒く塗るモノマネをするべきだ!」なんて極端なことは思っていないが、言うなれば容認派とか許容派といったところだろうか。
 自分はほぼ毎日、新聞を読むような感覚でハフポストに目を通している。自分の知る限り、大手メディアやそれなりに名の知れたネットメディアなどの中では、ハフポストはこの問題を最も積極的に取り上げているように感じられる。1/5の投稿を書いた時点でハフポストは既に2本の記事を掲載し、1/5の投稿に後から追記したように1/6にも1本、そしてその後この投稿を書いている時点で、更に2本の記事を掲載している。それら計5本の記事は、1/6の、BBCやNYタイムズがこの件について書いた記事の傾向に触れたやや中立的な記事を除いて、他の4本は全て、ブラックフェイスを行うことに関して、適切でないという論調の批判的な記事だ。


 ハフポストに関しては、朝日新聞との関係性がそれなりにあること、発祥の地・米国でもリベラル寄りのメディアであることなどを背景に、一部の偏見を隠さない人たちが、何かにつけてそのような点にばかりに注目し、誹謗中傷としか思えない批判を繰り広げるのをしばしば見かけるが、自分はこれまでハフポストの掲載する記事に関して、勿論全部が全部素晴らしい記事ばかりではなく、このブログでもこれまでいくつか誤解を生む恐れの感じられる記事については批判してきたが、概ね好意的な感覚で読んでいた。しかし、この件に関しての掲載記事はハッキリ言って酷い内容ばかりだ。
 ハフポストが掲載した5本の関連記事の内、ハフポスト名義の記事は、日本テレビの番組での表現に真っ先にツイッターで異論を唱えた、日本在住のアフリカ系アメリカ人作家へのインタビューを元にして、ハフポストが1/5に掲載した最初の記事と、1/6のBBCやNYタイムズがどのように報じたかを紹介した記事だけで、後の3本は、駒崎弘樹さん黒岩揺光さん雨宮紫苑さんら外部の執筆者が、自身のブログへ投稿した記事の転載などだ。個人的に感じるのは、ハフポスト名義の記事よりも他の執筆者の記事の酷さが目立つということだ。だからハフポストの姿勢はそれ程違和感を感じないということではなく、ハフポスト名義の記事の中にも違和感を感じる表現はいくつか見受けるし、転載記事などの掲載を決めたのもハフポストの編集部だろうから、ハフポストは全面的にではないにしろ、それらの記事の内容をある程度は支持していると言えるだろう。
 どんなメディアであっても、様々な考えを持つ個人個人と完全に考え方が一致するなんてことはないだろうし、ハフポストのこの件に関する方向性と、自分の考えの方向性が異なることについては特に問題だとは思わない。しかし、ハフポストが取り上げた外部執筆者の記事を見ていると、その極端さ加減によって「ハフポストもこのような論調に賛同・若しくは容認するメディアなんだ」と思えてしまい、かなり残念な気分にさせられた。ただ、ハフポストがこのような記事を掲載していても、1本だけでも異なる論調の執筆者の記事を掲載していたならば、残念感はそれほどでなかったかもしれない。
 自分はこれらの記事だけを根拠に「ハフポストは他の記事についても信用性の低いメディア」とは思わないが、人によっては「こんな酷い記事を掲載するなら今後はハフポストを読まない」と思うのではないか?という、割と深刻なレベルの懸念も感じてしまう。(追記:この投稿を書き終えた後、ハフポストを覗いてみたところ、前田将多さんによる中立的、というか、やや容認よりの記事が掲載されていたので、状況は少し変わった)
 
 ハフポストが掲載した外部の執筆者の記事の何が酷いのかにも触れなければ、単なる言い掛かりと思われかねないので、違和感を感じた部分を説明したい。駒崎弘樹さんの記事に関しては1/5の投稿で触れているので割愛する。
 まずは黒岩揺光さんの記事「日本のお笑い界に「人権感覚」を求めることは、八百屋に魚を売れと言っているようなものです。」に関して。黒岩さんがこのような見出しを付けたのは、この問題はブラックフェイスに関する問題だけに限った話でなく、日本のお笑い界全体に閉鎖的で人権感覚に欠ける風潮が蔓延していることに由来している、と言いたいからだろう。結論から言わせてもらえば、彼が提示した、そう考えるに至った根拠の殆どがかなり極端過ぎて、彼こそ日本のお笑い界に偏見を持っていると自分には思えた。
 彼は記事の中で、

日本のお笑い界は、とても閉鎖的に映る。女性芸人は全体の1パーセント以下とも言われる男性社会。先輩を「兄さん」と呼ぶなど、厳しい上下関係。関西など特定の地域が大多数を占め、出身地域の多様性に乏しく、私が住む新潟出身者なんて、1000人に1人以下じゃないだろうか。

と書いている。まず女性が全体の1%以下という話に関してだが、日本のプロ野球選手はほぼ男性だ。以前はプロ野球選手は男性のみだったが、最近は女性のプロチームも発足している。しかし、確実にプロとしての地位はまだまだ男性には遥かに及ばない状況だ。一方、日本のお笑い界には第一線で活躍する女性芸人もそれなりにいる。ということは、日本のプロ野球界は、お笑い界よりも更に人権感覚に乏しい閉鎖的な社会だということになりそうだ。先輩を「兄さん」などと呼ぶなど、厳しい上下関係についても、伝統的な芸能の世界や職人の世界などの殆どに厳しい上下関係が存在する。確かに、厳しい上下関係を背景に理不尽な要求をする者もいるだろう。しかしそれでも、上下関係が厳しい業界=人権感覚が欠如しているというのは、言い過ぎで失礼な話だろう。業界に携わる者の出身地の多様性が乏しいという話も、人権感覚欠如・閉鎖的などという話に直接的に結び付けられるものではない。例えば世界のプロサッカー選手の大部分は欧州や南米出身選手だが、だからサッカー界は閉鎖的とはならない。実力があればどこの出身であろうと活躍できる。ただ、実力のある選手が欧州や南米に多いだけだ。その理由はそれらの地域が世界中で最もサッカーが盛んな地域だからだ。例えば、自分はアラスカ出身のプロサッカー選手がいると聞いたことがない。もしかしたらそれなりにいるのかもしれないが、新潟出身のお笑い芸人よりも全体に占めるその割合は低いのではないかと想像する。しかし、アラスカ出身のホッケー選手ならば、ホッケー選手全体の一定の割合を占めているだろう。要するに出身地の多様性に乏しくても、それだけで閉鎖的・人権感覚の欠如とは直接的な関連性があるとは言えないことは明確だ。
 もしかしたら、全ての要素一つ一つはそれだけで閉鎖的・人権感覚欠如の根拠とはならないが、それらが重なることで、その疑いが強まると言いたいのかもしれない。勿論、疑いがあるというだけなら話はまだ理解できるが、いくら根拠の薄い要素が重なろうが、何か一つでも確定的な根拠がないのならば、単なる”疑い”でしかない。疑いでしかないのに、まるで断定するかのような論調で語るのは、例えば、不正受給にばかり注目するあまり、大多数の誠実な保護受給者には目を向けず、まるで「保護受給者=不正受給者と断言できる」と言わんばかりに誹謗中傷するような人と似たような論法のように感じられる。
 彼は更にこう続ける。
 
そして、ほとんどが10代の頃からこの世界に入っており、他の世界を知らない人が多い。要するに日本の笑いはとても閉鎖的な空間から消費されてきた歴史があり、

世界レベルで活躍するスポーツ選手やその国のトッププロとして活躍する選手の大部分は、幼少期からその競技に明け暮れる。そして他の世界をほとんど見ることなくプロ選手になったり、オリンピック代表選手になったりする。彼らに「だから、君たちのような者が多く活動するスポーツ界は閉鎖的な空間だ」と黒岩さんは言えるだろうか。もし万が一、黒岩さんが「スポーツ選手は感動を与えるから閉鎖的なわけがない、だけどお笑い芸人は違う」思っているのだとしたら、かなり滑稽だ。スポーツ選手でも、特にスノーボードやBMX、バイク・自動車レースなどに関しては、「子供が真似たら困るから見せてくれるな、賞賛し過ぎないでくれ」などネガティブな視点で見る人は必ずいる。そして、似たような状況なのに、スポーツ選手とお笑い芸人の判断が変わるのであれば、ある意味それは職業差別にもなるだろうと自分には思える。というか、大学進学後芸人になる者も、社会人を経験した後に芸人になる者も多くいることを彼は知らないのだろうか。批判するにしても、もう少し理解を深めた上でするべきではないだろうか。

 このような点から黒岩さんの話は日本のお笑い界への偏見としか思えない。人権意識の欠如を指摘する人が偏見を根拠にそれを説明しようとしているのはとても滑稽で、それだけで不適切と感じられるが、もっと酷い部分が記事の後半にある。

人を叩いたり蹴ったりする暴力が容認されるという面でも、日本のお笑い界は世界でも珍しい空間だ。私は15歳で渡米し、浜田が松本を叩くように、向こうの同級生の頭を親しみを込めて叩いたら、激怒された。が、友人に突っ込むことがすでに習慣付いていたため、この癖を完全に治すまでに数年かかった。

彼は、日本のお笑い界と欧米のコメディ文化だけを比較して、世界でもとても珍しい、と表現しているのだろう。もしかしたら欧米のコメディに比べれば日本のお笑いは暴力的な部分が多いかもしれない。しかしそれは単なる芸風の差で、厳密に言えば、それらは芝居で実質的には暴力とは言えないと自分は考える。暴力表現が芝居に含まれる映画・ドラマなんて全く珍しくない。確かに笑いを得る為の暴力表現ではないかもしれないが、感動という感情の変化を生み出す為に暴力表現が用いられると考えれば、自分はそんなに大きな差はないと考える。更に格闘技や武道だって同様ではないだろうか。剣道は一見すれば、長い棒で叩き合ったり突き合う暴力的な競技にも見えるだろうし、ボクシングだって殴り合いで相手に深刻な怪我を負わせてしまうこともある。これらの競技も暴力が容認される一つの例だし、暴力の度合いは確実にお笑いのツッコミや罰ゲームよりも高く、且つ直接的だ。
 彼がアメリカでも日本のお笑いのツッコミを真似て、友人を叩いて激怒された。という話に関しては、お笑いが悪いのではなく、彼に「テレビやお笑いを真似て人を叩いてはいけない、あれは信頼関係がある前提で行われている」ということを、しっかり教えてくれなかった親や先生を恨むべきだろう。例えば、刑事ドラマの犯人が侵す犯行を真似て捕まったとしても、悪いのは刑事ドラマを放送したテレビ局でも、犯人を演じた俳優でもない。悪いのは真似してはいけないことを理解せずに真似て犯罪を実行した人だ。要するに、黒岩さんがアメリカの友人に激怒されたのは黒岩さんが叩いたからで、それをお笑いの所為にしようというのは、単なる責任転嫁でしかない。ハフポストでの彼の肩書は”専業主夫”となっている。彼に子供がいるのかどうかは知らないが、彼が父親で子育て中なのだとしたら、所謂モンスターペアレントである恐れもあると感じてしまう。
 
 
 次は雨宮紫苑さんの記事「日本には日本の価値観があるとはいえ、世界的にブラックフェイスがタブーであるという事実は変わらない。」について。雨宮さんの記事は、黒岩さんや駒崎さん程までは酷さを感じないものの、それでも違和感を覚える個所はいくつかある。結論から書けば、彼女は他の2人と異なり、日本では黒人差別の歴史が決定的に欧米とは異なり、顔を黒く塗ることに関して問答無用で差別的とは思えないという話に関して、

日本では黒塗り=ネガティブなイメージを持っていない人が多いから、いい意味で差別意識がないのだろう。

と書いているように、ある程度の理解を示している。しかし、そんな日本の事情よりも世界的にタブーであることを重視するべきだ、というのが彼女の主張のようだ。 記事の中に、
 
アメリカをはじめとした多くの国では、ブラックフェイス=人種差別と認識されている。敬意があるとかないとか個人的なものまねだとかは、関係ないのだ。

という文章がある。「関係ない」と書かれたら、「日本の事情など一切関係ない、兎に角海外の事情に合わせろ」と言っているようにも見える。世界というメジャーな存在に、マイナーな日本は感覚を合わせるべきだと言っているようにも思え、それでは多様性を重視するということに反すると自分は考える。勿論日本人も海外の風潮を理解し、ある程度配慮する必要はあるだろうが、同様に海外の人々も日本の事情に配慮する必要はあるだろう。黒人差別問題の根底にはマイノリティーの尊重という視点もあるのに、世界的に見た際に少数派である日本の事情は関係ないというのでは、矛盾が生じると自分には思える。
 彼女はこう続ける。
 
そういう認識がすでに一般的である以上、「日本においてブラックフェイスは人種差別ではありません」という主張は、ちょっと自分目線すぎるんじゃないだろうか。

まず、「そういう認識がある以上」のそういう認識は日本にはない。日本には全くないとは言わないが、彼女も認めているように、確実に欧米ほど市民に共有された感覚ではない。にもかかわらず、そんなのは自分目線でしかないと言うならば、日本の事情を汲まない批判もまた、欧米至上主義的な自分目線(欧米目線)の押し付けになるのではないだろうか。

 記事の後半には、彼女の主張の根本にある感覚だと思える

やらないで、と言われたらやめるべき

という文言がある。恐らく彼女はいじめやセクハラなどの例を想定してそのように書いたのだと想像する。確かに「やらないで」と言われたら、相手を慮って嫌がる行為を止める方がいい場合は多い。しかしどんな場面でもそれが当て嵌まるとは言えないと自分は考える。
 例えば、12/12に朝日新聞が「「焼肉のにおいが、くさくてたまらない」。バーベキュー禁止を求めた男性、裁判で敗れる」という記事を掲載している。近所の公園のバーベキュー場の臭いがくさくてたまらないからどうにかしろと、ある男性が訴えたが、周辺住民らに聞いたところ生活に支障はないという人が多く、敗訴したという記事だ。「やらないで、と言われたらやめるべき」という話がどんな場合にも当てはまるなら、裁判自体が必要なく、誰かが文句を付けたらバーベキュー場は問答無用で廃止しなければならなかったはずだ。もしそんなことが正しいのであれば、気に入らない人が経営する焼肉屋の近所に引っ越し、臭いに耐えられないと訴えるだけで、その店を潰すことが出来てしまう。また、近年子供の声がうるさいという反対の声の為に保育園が建てられず、待機児童問題が改善しないという話もある。それだって「建てないで、と言われたらやめるべき」となるだろうし、逆に子育て中の親が「建てないでなんて言わないで、と言われたら住民は黙るべき」とも言えるかもしれない。一体どちらの側で判断するのが正しいのか、「やらないで、と言われたらやめるべき」という考え方では判断がつかない。

 勿論、今回の件について、ブラックフェイスは止めるべきという主張が、何の根拠もない難癖・言い掛かりとまで言うつもりはない。当然欧米における長い黒人搾取・差別の歴史には、当事者でなかった日本人も一定の配慮を示す必要があるだろう。しかしそれでも、差別かどうかに関係なく行為自体を日本でもタブー化しろ、というのは過剰な被害者感情だと自分は考える。雨宮さんが、「(日本の事情は)関係ない」とか、「(日本人の感覚は)自分目線過ぎる」なんて極端な事を言っていなければ、彼女が「それでも止めた方がいい」と考えること、それを主張することには何も問題性はないと思う。ただ自分とは異なる意見を持っているということでしかない。「やらないで、と言われたらやめるべき」という話も、そのような話が合理的である場合も少なくないので、完全におかしいなんて指摘するつもりは全くない。
 ただ、それでも欧米・特にアメリカで主流な感覚を根拠に「ブラックフェイスが”世界的”にタブー」というのは言い過ぎだ。世界=欧米でもないし、世界=アメリカでもない。日本だってアジアだって世界の一部だ。そして欧米にだってブラックフェイス=問答無用でタブーとしない人達はいる。オランダのサンタクロース(シンタクラース)の侍従として、イベントに欠かせない存在の、ズワルトピートという顔を黒く塗ったピエロ風のお供などがその例だ。
 
以上が、黒岩さんと雨宮さんの記事に関して感じた自分の違和感だが、ハフポストにはこの手の記事ばかりでなく、是非中立的な、若しくはブラックフェイスを容認する立場の、勿論過激でなく、落ち着いた意見を持っている人が書いた記事も掲載して欲しい。5件も記事を掲載するほどこの件に注目しているなら、別の視点の記事を掲載することも必要だと自分は考える。(追記:前述の通り、1/11に中立・容認よりの前田将多さんの記事が掲載された)
 せめて黒岩さんの日本のお笑い界に関する偏見に対して、お笑い界側の人の意見を掲載することだけでもして欲しい。黒岩さんの記事に関しては確実に、日本のお笑い界は受ける必要のないとばっちりを受けているように思える。

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