2019年は平成最後の年になることがほぼ確定している。これまでの方式を踏襲するのであれば、来年の4/30までが平成31年、5/1から新元号の元年ということになるのだろう。だが、この方式は分かり難いので改めるべきだと自分は感じている。平成になる際も1989年の1/7までが昭和64年で、1/8から平成元年になったのだが、元号で今から何年前かを計算する際にややこしくて不便だ。天皇が崩御(来年で言えば退位)した年はまるまる従来の元号最後の年とし、翌年を新元号の元年にするとか、逆に1年未満で終わった旧元号最後の年を消滅させて新元号の元年に改めるか、どちらでもいいが数えやすい方式に変えて欲しい。
特に今回の改元に関しては譲位が行われるという、一天皇一元号とした一世一元の制となった明治以降の前例を踏襲しない改元でもあるので、一緒にそのような利便性を考慮した制度改正が検討されてもいいのではないか?と自分は感じている。
こういうことを書くと「日本の伝統を崩すな!」なんて言う人もいるかもしれないが、明治以前は一天皇一元号ではなかったのだから、そもそも今の元号制度が伝統に則っていないとも言えるのではないだろうか。天皇が生前に退位することだって、歴史的に見ても全然珍しいことではない。もっと言えば、現在伝統とされている「皇位継承は男系男子に限る」という話だって、古代には女性天皇が存在していたことを考えれば、伝統を重んじているとは言えないのではないだろうか。個人的には、天皇やその周辺の制度に関して「日本の伝統を重んじよ」的な主張をする人たちが言っていることの大半は、厳密には日本の伝統ではなく、「明治以降から戦中までの大日本帝国政府の制度を重んじよ」と言っているだけだと思っている。
確かに現在の日本において、”創業明治○○年の100年以上続く老舗”は伝統的な商売と言えるだろうから、「明治以降の話程度じゃ全然伝統的じゃない」とまでは言わないが、明治以降とか江戸以降主流の制度だけを根拠に、あたかも”有史以来、我が国で脈々と受け継がれてきた伝統”かのように表現するのは如何なものだろうか。誇大表現・もしくは明らかな錯誤に基づいた適切とは言えない表現と言わざるを得ない。
話を元号に戻すと、そもそも元号とはそんなに必要なものだろうか。確かに元号による年代表記は日本特有の文化だから、全廃しろなんて極端なことは思わないが、確実に使い勝手、連続性を把握するという年代表記の重要な点では西暦表記に劣る。政府やお役所は年月日を記載する際にはほぼ元号で表記するが、是非とも西暦による表記を併記して欲しい。というか西暦を基本に元号表記を併記するように改めてもらいたい。
自分は昭和生まれで、昭和から平成への改元をリアルタイムで経験しており、昭和64年=平成元年だという認識を持ってはいるが、大正15年が1926年の12/25までで、それ以降の11日間だけが昭和元年だという認識はあまりない。ということは、平成生まれにとっては昭和64年と平成元年の関係性の認識もあまりないということになるだろう。しかも、来年新元号になれば、昭和x年が今から何年前だったかを元号で考える際に、(64-1-x)+(31-1)+新元号の○○年、というような計算をしなければならない。各元号最後の年を省いて記憶しておけば各-1は無視できるし、元号の年を西暦に変換して考えれば、西暦で計算する 20xx - 19xx に一手間かけるだけで済むだろうが、それでも余計に手間がかかることには違いない。
しかも諸外国では西暦表記がスタンダードなので、というか日本の元号で年月日を表記するなんてことはあり得ないので、外国での出来事と日本の出来事の関係性を考える際には、元号表記がなされていると確実に西暦に変換、若しくは元号に変換して考えるという手間がかかる。
それでも「元号は日本の伝統だから重視せよ」という人はいるだろうが、自分が彼らに聞いてみたいのは、歴史的に主要な出来事がいつ起こったのかを元号で覚えているか、考えられるか、ということだ。相当な歴史マニアか専門家でもない限り、歴史上の出来事が何年に起こったかについて、元号で言えるなんて人はいないだろう。何故なら、学校の歴史の授業では、出来事同士の関係性やタイミングを直感的に把握しやすく、世界史とのつながりを理解するのに適している西暦で歴史の流れを教えているからだ。元号が日本の伝統で重視しなければならないのなら、日本史を学ぶ際に元号で教えるべきではないだろうか。元号”で”は言い過ぎだとしても、元号”も”把握するように指導するべきだし、元号を把握しているかを確認するような問題がもっとあって然るべきだろう。
しかし現実はそうはなっていない。それは明らかに元号による年月日表記は連続性という面で西暦表記に劣り、分かり難いからだ。ということは、現在の政府や役所の発表に関しても同じことが言えるだろうから、誰もが直感的に把握しやすい西暦を併記する必要があると言えるだろうし、さらに言えば西暦表記を基本に元号表記を併記する方式に変えた方が合理的であることは確実だ。
伝統とは何か、いつもはこのようなことを書く際は、少なからず辞書やネットで確認をしてから書くので、概ね間違いはないと思うが、これから書くのは確認抜きの自分の思いなので、正確さは一切保証できない。
伝統と聞くと、多くの人はポジティブな印象を抱き、守られるべきものとか絶やさないように努力を注ぐべきものなどの印象を感じるだろう。しかし、実際に伝統という表現が用いられる場合、伝統と表現されるもの全てがそのイメージに該当するとは言えない。伝統と言うとポジティブだが、慣習・しきたり・掟 などと言いかえれば、良い悪いは別として”従来から続いている様式”のような印象だ。特にしきたりや掟の中には、印象の良くない悪習・悪弊なんて言われてしまうようなものもある。場合によっては悪習であるのに、「伝統だから守れ」などと強要するパワハラ・先輩から後輩へのイジメなどが行われている場合もある。要するに伝統だから守るべきなのではなく、理に適い必要とされてきたものが伝統なのだと自分は考える。
伝統だけにしがみつけば、発展や進歩は阻害されるし、逆に伝統を蔑ろにして過去を顧みなければ、同じ失敗を繰り返す恐れがある。そんな意味で考えれば、元号自体を撤廃する必要は、現時点ではないと言えるが、表記の主体を元号から西暦に移行することに関しては、江戸期の鎖国状態から150年が経とうとしており、同時に元号が改められるこのタイミングは、制度を見つめなおす良い機会でもあるので、是非この機に検討すべきだと考える。