科学的な根拠とか、科学的な研究結果などと聞くと、少なくとも日本国内では、多くの人はとりあえず信憑性があるという前提で受け止めようとする傾向があると思う。本来、科学的とは一体どんなことを指す言葉なのか?、ということを何よりもまず考えなければならないのだが、殆どの人はそんなことは意識せず漠然と、そしてほぼ無条件に”科学的=ある程度信憑性がある”と考えるのではないだろうか。
ネット普及によって情報の流通量が増えた結果、まだまだ研究が進んでいないような分野についての論文や調査結果・研究結果などが、あたかも充分に実績が積み重ねられ、科学的に確立した根拠がある話かのように取り上げられる機会が増えたと自分は感じる。勿論そのような情報は全て正確性が薄いのに、あたかも正確さが確立した立証済みの情報として扱われているとは言わない。当然適切な調査と研究に基づいて仮説を証明しているケースもある。だが、内容云々以前に「〇〇という研究結果を、××研究所が報告」なんて見出しの記事を見ると、全く知らない研究所の誰かも分からないような研究者による、仮説の段階から全然研究が進んでいないような、最悪単なる個人的な見解に申し訳程度の数値が添えられているような話でも”科学的”という印象を抱き、ある程度の信ぴょう性を漠然と感じてしまう人は決して少なくないのではないだろうか。
似たような手法は健康食品や美容商品などの通販広告でもしばしば目にする。「個人の見解です」なんて端書を小さく小さく添えて、どこの誰かも分からないような研究者が白衣を着て説明していたり、どんな大学かすら定かでないような大学の教授とされる人物が難しそうな本が並ぶ棚の前で、それらの商品の効果の素晴らしさを饒舌に語っていたりする。多くの場合「効果・効能を保証するものではありません」などの端書もある。最も嫌悪するのは、専門家でも何でもない芸能人に自分が効能を経験したと話させ、まるで即効性があり、万人にとって効果絶大かのような印象を最大限に引き出そうとしている場合だ。自分が嫌悪するのはCMに出演している芸能人ではなく、そんなことを言わせている企業や広告制作者だ。出演している芸能人にも決していいイメージは抱けないが、CMでは彼らが自らの責任で発言しているのではなく、彼らは単に台本通りに演じていると思っている。商品と共に前面に立つことになる彼らは、万が一商品や企業に問題が発覚した場合、自身の印象を下げ、その後の仕事に影響が出るというリスクも負っている。
流石にこの手の胡散臭い通販広告だと、メディアで取り上げられる記事に比べて”科学的”だと感じる人は減るだろうが、それでもBS局・地方局・CS局ではこの手のCMを見ない日はないし、信じて購入している人もそれなりにいるのだろうと想像する。すべてが全て胡散臭い商品と断定することはできないが、一時期ブームになった水素水関連商品が、その効果に疑念を呈されて以来、確実に下火になったことなどを考えると、似たり寄ったりの商品は決して少なくないと想像してしまう。
余談だが、最近最も興味深かったのは、ある地方局の番組で”酔いをなるべく早く覚ますには何が効果的か?”という特集をしており、その番組では、悪酔い・二日酔いへの効能を謳う、シジミエキスを抽出したという錠剤のCMを流しているにも関わらず、シジミの味噌汁が二日酔いに効くという話を取り上げ、「シジミに含まれるオルニチンがアルコールの分解を促すことは事実だが、効果を得るにはシジミ3500個分のオルニチンを接種しなくてはならない」という専門家の見解を放送していたことだ。専門家の見解が絶対的に正しいとは言い切れないし、もしかしたら、その錠剤はシジミ3500個分に相当するオルニチンを数錠の服用で接種できる夢のような商品なのかもしれないが(あまり興味がないので詳しく知らない)、あまり効果は期待できないという印象を自分は感じた。
1/28、BuzzFeed Japanは「その情報、科学的根拠はありますか? BuzzFeed Japan Medicalが調査した9つの話」という記事を掲載した。記事は、あたかも真実のかのように伝えられる、実際は根拠に乏しい怪しい医療や健康に関する情報には充分に注意を払う必要があると啓蒙するような内容で、その趣旨には自分も強く賛同する。しかし、記事が、根拠が薄い健康や医療に関する情報を批判する際の根拠としてあげている話の中にも、科学的に合理性があるとはまだまだ言えないような話が含まれているように自分は感じる。確かにそれらは、記事が懸念を示したような話よりは遥かに合理性があるのかもしれない。しかしそれでも科学的に確立した根拠があるとは言えないような話が含まれていることには違いない。
例えば、記事が挙げた例の中に「新型たばこについてわかっていること、わかっていないこと」という項目がある。恐らく最近普及しつつある、ベポライザー/気化器を使用し直接燃焼させない新型のたばこについて「副流煙が殆ど出ないから受動喫煙の恐れが低い」というような認識があることを前提に(記事にはそのような記述はないが自分はそのように受け止めた)、
新型たばこが日本に広まりつつありますが、その安全性は明確に証明されているわけではありません。
と説明しているのだろう。しかし、自分はこの記述はフェアでないと感じる。安全性が(科学的に)証明されていないことは事実だろうが、逆に言えば、危険性も(科学的に)証明されていないとも言える。危険性が立証されていないなら何の対処もする必要がないなんて極端なことを言うつもりはないが、「安全でない」と書くだけでは「危険なものだ」と暗に言っている、言い換えれば必要以上に危険性を煽っている恐れもあるのではないか。つまり、安全性も危険性もまだまだ解明されておらず、研究が進んでいない状態です。などと表現するのがフェアな表現だと自分は感じる。
そんな意味では、前述のように記事の趣旨には賛同できるものの、記事の表現には適切とは言えない部分も多いと感じる。
記事の中には、自分が冒頭で書いたのと同じように、「日本には信頼性の低い科学情報が生み出されやすい構造がある」とか、「食の健康情報は科学的根拠が薄い(ものも多い)」という表現がある。これは、記事の見出しの、
その情報、科学的根拠はありますか?
という表現と矛盾していると自分は思う。科学的根拠の中には、研究が積み重ねられた信憑性のあるものもあれば、裏付けが殆どない信憑性の薄い、場合によっては仮説、要するにまだ何の根拠も示されていない研究者個人の主張でしかないような、信憑性の全くないものもある。世の中に溢れる情報の取捨選択をする際に私たちが頼るべきなのは、科学的根拠ではなく合理的な根拠なのではないだろうか。この見出しでは、結局、”科学的=信頼性が高い”とか”科学=万能”という少しずれた認識を煽りかねず、記事の趣旨に反してしまうのではないかと考える。