MLB・アメリカのプロ野球メジャーリーグの球団、クリーブランド・インディアンスは、先住民をキャラクター化したデザインを含むチームロゴをこれまで使用していたが、2019年のシーズンから使用を止めると発表したそうだ。TBSニュースの記事によると、インディアンスは1947年からマスコットキャラクターとして”ワフー酋長”をデザインし、チームロゴなどで使用してきたが、「先住民を滑稽に誇張して差別的」などの批判が近年寄せられるようになり、”長年親しまれたロゴだが、時代にそぐわないとMLB・球団が判断”し、この決定に至ったようだ。”インディアンス”というチーム名自体にも否定的な見解が少なくないようだが、今回はチーム名はそのまま継続するという判断に落ち着いたようだ。
アメリカ先住民をインディアンと呼ぶのは、コロンブスが西回り航路でインドを目指し辿り着いたアメリカ大陸をインドと勘違いしたことに由来する、という話を聞いたことがある。この由来が正しいのかどうかは別として、アメリカ先住民は欧州からやってきた白人らに迫害されてきた歴史がある。アメリカ合衆国独立以後も、先住民への迫害は続き、奴隷として連行されてきた黒人同様差別の対象になってきた。インディアンという呼称はそのような歴史を色濃く想起させるという理由で、最近はネイティブアメリカンという呼び方が主流になっている。そんなことを考えれば、インディアンという呼称にはネガティブな意味合いが含まれるという話には共感できる。しかし、野球チームの名称がインディアンスであることや、伝統的なネイティブアメリカンをキャラクター化したロゴの使用をネガティブに捉え、排除しようという考えには全く賛同出来ない。
このような批判を繰り広げているのはネイティブアメリカン自身なのか、彼らの気持ちを勝手に忖度した白人やその他の人々なのかによっても、この件の是非についての判断は異なるのかもしれない(Wikipediaによれば、AIM・アメリカインディアン運動という、ネイティブアメリカンが主体となった団体も、このマスコットに嫌悪感を示しているようだ)。そして、インディアンスというチーム名になった経緯の中に、ネイティブアメリカンへの敬意があったかどうかも重要な点だと思う。自分はそれについて詳しく調べたわけではないし、チームの公式サイトやWikipediaで確認するくらいしか出来ない。だが、ネイティブアメリカンを馬鹿にするような意図で、自分たちのチームの名前をインディアンスとするだろうか? 普通に考えれば、自分たちのチーム名を決める際にわざわざネガティブなものを選ぶはずがない。自虐という可能性もないわけではないかもしれないが、自虐だってマイナスイメージを逆手にとって、実はそれを誇りとして主張する場合もあると自分は考える(Wikipediaによると、インディアンスの前身チームで活躍したネイティブアメリカンの選手に敬意を表してつけられたと言われているそうで、それが事実ならば確実にポジティブなネーミングだ)。
そして、ワフー酋長を模したとされるマスコットに関しても「先住民を滑稽に誇張して差別的」なんて全然思えない。自分には、かわいらしく肯定的にデザインされたマスコットのように見える為、一体どこが滑稽で差別的なのか理解に苦しむ。ただ、そう見える人は目が腐ってるとか性根が腐ってるなんて極端なことも言わない。そう感じる自由もあるし、そう見えてしまう歴史的背景もあるのだろう。しかしそれでもチームに使用を取り下げさせるなんてのはやりすぎで、過剰な被害者感情だと自分は考える。
こんなことを言い出せば、デフォルメを加えて特徴を強調することは全て、どんなキャラクターも「滑稽さを強調し、モチーフを差別的に表現している恐れがある。だから使用をやめさせるべき」という主張が通ってしまいそうだ。個人的には、当事者のネイティブアメリカンは別としても、インディアンスのマスコットが差別的であると主張している人こそ、ネイティブアメリカンに対する逆差別をしている恐れもあると感じる。
90年代前後に日本でも似たような事案があった。童話”ちびくろさんぼ”や、黒人がストローでカルピスを飲んでいる様子を図案化したカルピスの旧トレードマークが、黒人差別を助長する、想起させるなどと批判され槍玉にあげられた。ちびくろさんぼの中で黒人を差別するような描写は一切ないし、黒人がカルピスを飲む図案にも差別的な要素は一切感じられない。一体どこをどう考えて差別的なんて話が盛り上がったのか、自分は全然理解できなかった。黒人を登場させるだけで差別に当たるということだったのだろうか。
2017年11/5に”「障害者を『見世物』」にしてはダメ? 東ちづるさんの行動に心が震える”という記事をBuzzFeed Japanが掲載している。女優の東ちづるさんが、障害者を役者として舞台にあげると必ず「障害を見世物にするのか」という批判が出てくると話し、それはあまりにも短絡的な思考ではないのか?と苦言を呈するような記事だ。確かに補助金目当てで障害者施設を開所し、障害者を食い物にしたり、最悪虐待したり搾取したりするような事件も起きている。しかし障害者を役者として舞台に上げることは、障害者を食い物にしているわけでもないし、見世物として不適切に飯のタネにしているわけでもない。「障害者を舞台に上げるなんてけしからん」という主張は、障害者の自己表現の場を奪う恐れがあると言う意味では、そちらの方がよっぽど差別的な思考だと自分は思う。
年末のテレビ番組で日本人の芸人が黒人に扮し、その際に顔を黒く塗ったことをめぐって大きな論争が起きた。自分はその件について、1/5の投稿と1/11の投稿で触れ、顔を黒く塗る行為=問答無用で絶対ダメ、という主張への強い違和感を書いた。顔を黒く塗る行為を差別的な意識に基づいているかどうかに関係なく絶対的なタブーと捉える価値観は、欧米、特にアメリカで主流の価値観だ。勿論そのような状況を受けて、日本などそれ以外の地域でも同様の価値観を持つ人がいるし、それを全面的に否定するつもりは全くない。しかし、「黒人を奴隷化して差別してきた地域で主流の価値観を、まるで世界で最も優れた価値観かのように語り、従うべきだとして一方的に押し付けようとする行為」は、別の視点でみれば、「差別かどうかに関係なく兎に角従え、お前たちの価値観は間違っている」と言われているようで、言い換えれば、多様性を否定する行為にも感じられる為、全く賛同できない。
インディアンスが従来のロゴマークを取り下げなければならないような国の価値観と、日本の価値観は確実に異なるが、どちらかが絶対的に正しいなんてことは確実にない。しかし黒塗り問題の論法から考えると、その内欧米、特にアメリカ人の一部は、自分たちの価値観が世界で最も優れているかような論調で、日本国内で使われている何かしらのロゴ・キャラクターを批判し始める恐れがあるのではないだろうか。例えば、カルピスの旧トレードマークのようなものが槍玉にあげられるのだろうと懸念する。
確かに、ナチスドイツのようにあまりにも残酷で残虐な行為を犯した存在を、象徴するような制服・紋章・名称などは、大多数の人がそれを想起してしまうだろうからタブー化されることも仕方がない。しかしそれについてだって感覚の地域差・民族間の差はある。例えば、仏教的なものを表すのに、日本やアジアの国では卍(まんじ)が用いられる。卍はナチスの鍵十字を鏡に映した形の図案だが、卍の方が古くから存在し、鍵十字は卍の影響を受けたデザインという説もある。
卍に以前から慣れ親しんでいた仏教国では卍と鍵十字は全く別ものという認識が一般的で、混同する者はほとんどいないが、昨今外国人観光客が増加している日本では、外国人が地図上で寺院を卍で表現しているのを見て「ナチスが公然と存在している!」などと想像しギョッとするなんて話をよく聞く。欧米で「卍を地図記号で使おう」なんて言っても「鍵十字と混同する恐れがあるので不適切」とされるだろうし、多くの者がその考えを容認するだろう。それはごく普通の感覚だとも思う。
だが、その価値観を日本人も受け入れるべきだ、という主張がされたとしたら、私たちはそれを受け入れるべきだろうか。寺院の地図記号が卍でなくとも困らないことも事実だが、欧米の価値観が強制された場合、それによって地図の書き換えなど莫大な手間とコストが掛かるだろうが、誰がそれを負担するのか。そもそも卍は文字でもあるので、文字文化、仏教文化の侵害に当たる恐れもあるのではないだろうか。
差別や偏見は確実に軽蔑すべきものだし、出来る限り社会から取り除くべき存在だろう。しかし、あまりに過敏になり過ぎれば、多様性を否定することにもなりかねないし、それはある意味で別の差別を生み出す恐れもある。差別や偏見を取り除く為の活動・主張が別の差別を生み出し多様性を否定するようなことになれば、それは本末転倒だ。というか、それこそ単なるエゴでしかない。
追記:
翌日にこの続きに当たる投稿をしました。
独見と偏談: 反差別・偏見と多様性のバランス感覚
http://dokuandhen.blogspot.com/2018/01/blog-post_31.html