スキップしてメイン コンテンツに移動
 

顔黒塗り=人種差別?


 バイエ・マクニールさんというアメリカ・ニューヨーク出身の黒人男性が、年末に日本テレビが放送した「ガキの使い!大晦日年越しSP絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」の中で、ダウンタウン・浜田雅功さんが、映画「ビバリーヒルズコップ」の中でエディ・マーフィーさんが演じた黒人刑事に扮し、顔を黒塗りにしている画像や、テレビ朝日が放送した「無人島0円生活」の中で、よゐこ・濱口優さんが黒塗り姿で出演している画像を添えて、以下のようにブラックフェイスに対する嫌悪感を表明している。
 

 この件はツイッター・ネット上でそれなりに話題になっており、ハフポストは、マクニールさんへのインタビューを元にした記事を1/3に、保育や幼児教育が専門である駒崎弘樹さんがYahoo!ニュース個人に投稿した記事の転載を1/4に掲載している。マクニールさんへのインタビュー記事が顔の黒塗りを強く嫌悪する論調であるのは当然だが、駒崎さんの記事も同様で、ハフポストが掲載したのは共に顔の黒塗りを嫌悪する内容だ。(その後1/6に、BBCやNYタイムズがどのように報じたかに注目する形で、やや中立寄りの記事も掲載した。)

 
 自分は日本テレビの「笑ってはいけない」は見ていないので、どのような内容だったのかについては詳しくは分からない。しかし、毎年末に放送されている番組内容からして、扮装・モノマネで笑いを誘う手法が多く使われていたのだろうと想像する。自分の想像と実際の放送内容が厳密には異なっている恐れもあるが、顔を黒くして行った黒人刑事の扮装も、その一つでしかなかっただろうし、もしそれだけで差別的であるならば、他の扮装も笑いを誘う目的で行われていることは同様なのだから、全ての扮装・モノマネについて差別的とか不謹慎などと指摘出来てしまいそうだ。というか、そのような話が適切ならば番組自体が成立しないだろうし、それだけでなく他の多くのお笑い・バラエティ番組でモノマネを取り上げること全般を自粛するべき、なんてことにもなりかねないと想像する。
 いじめ・セクハラなどと同様に、差別に関してもどこからが差別でどこまでは差別に当たらないのかの、明確で絶対的な線引きなどない。差別への感度を最大限に高めれば、顔の黒塗り=問答無用で黒人差別、という話も合理的ということになるのかもしれないし、欧米などではそんな考え方が主流なのかもしれないが、自分にはとてもそうは思えない。そんな極端な考え方は副作用が余りにも強過ぎるからだ。

 テレビ朝日の「無人島0円生活」に関しては、番組を全て見たので、濱口さんの黒塗りは差別意識どころか、黒人に扮したわけですらないことが明白だと断言できる。濱口さんが黒塗りで出演したのは、関連番組・「陸海空 地球征服するなんて」に出演しているテレビ朝日の日本人のディレクターに扮したからだ。
 この番組とそのディレクターは昨年、ペルー・アマゾンに住むネイティブ系住民を取材し大きな話題になった。彼は常に「絶対マネをしないで下さい」というテロップが必要なくらい、突拍子もない行動に出る反面、テレビ番組ではあまり触れられることのない、このようなドキュメンタリーテイストの番組作りでも確実に演出があることなどを、ディレクターという立場でありながら、隠さずさらけ出す姿勢などが好評を博した理由だと自分は感じている。この取材の中で、彼は本来顔に塗るべきではない、現地住民が入れ墨などに用いる簡単に落ちない染料を、「肌に良い」などと現地住民たちに言われ、言い換えれば、このディレクターが好奇心旺盛に何にでも挑戦するタイプだということを前提に、彼らにからかわれるようなかたちで顔や手足に塗りたくり、その後、案の定真っ黒な顔・手足という姿になり、現地住民にも怪しまれながら、そしてその人懐っこいキャラクターで親しまれながら、別の集落で染料の落とし方を教えてもらうまでその姿で取材を続けた。この異様でインパクトの強い見た目も、彼と番組が注目を浴びた理由の一つだろう。
 このディレクターは「いきなり!黄金伝説」という番組の中で、よゐこが長い間続けてきた人気企画・「無人島0円生活」の担当ディレクターでもあったようで、年末の特番で濱口さんが黒塗りで出演したのは、このディレクターが昨年大きな話題になったのを受けて、彼への対抗心を表現する為だ。要するに、黒人差別の意識がないのは明白だし、というか、黒人の扮装ですらないのに、このシーンの画像を添付して「こんなのは黒人差別的だから止めろ」とか「日本は人権後進国と思われかねない」なんて言うのは、明らかに過剰な被害者意識、というか寧ろ、難癖のようにさえ思えてしまう。

 主にアメリカで、もしかすると日本でも黒人に対する差別を実感しているであろうマクニールさんが、過剰な反応を示してしまうことに関しては、賛同は決して出来ないが、そう感じてしまうことも理解できなくはない。しかし、日本人なので当然日本の状況にも詳しく、番組を見ていればどのような経緯があったのかも確実に理解できるはずの駒崎さんが、マクニールさんのツイートを引用して、黒塗り=(経緯に関係なく)黒人差別の象徴だなどと言っていることは、あまりにも極端で短絡的な思考のようにしか見えず、かなり残念だ。
 
 駒崎さんが記事の中で例に挙げているように、これまで主に白人などが顔を黒塗りにすることで黒人を揶揄してきた事実があることについては、自分も全く異論はない。確かに日本でも、無頓着にアフリカで今でも昔ながらの狩猟などを軸に生活しているような民族に扮し、時に揶揄するようなニュアンスで笑いのネタにしていたことはあっただろうが、それでも日本においてのこれまでの状況は、欧米とはやや異なっていたことを理解する必要性はあるだろう。日本人が黒塗りで黒人などに扮したネガティブではない事案が、自分の知る限りでも2つはある。
 まずは昭和後期の人気コーラスグループ、ラッツ&スター(シャネルズ)だ。彼らの楽曲を考慮すれば、彼らが黒人音楽に憧れ、そして尊敬の念をもっていたことは明らかだ。憧れていても黒塗りにする必要はないし、もしかしたら、目立って注目されることを目的として顔に靴墨を塗っていたという側面の方が強かったのかもしれないが、同時に彼らが黒人音楽を好み、そして憧れていたことも確実で、自分はそこから差別的な意識を一切感じることは出来ない。
 もう一つは、2000年前後に若い女性の一部で流行したギャル系ファッションを、さらに発展させたガングロ系だ。彼女らはファッションの一部として黒塗りを取り入れていた。厳密に言えば、日焼けした浅黒い健康的な肌への憧れの、強烈なディフォルメであって、黒人への直接的な尊敬の念や憧れがあったわけではないかもしれないが、黒人に人気のあるヒップホップやR&Bのアーティストなどのファッションテイストを取り入れてもいたし、黒人への差別意識や揶揄であんな格好をしていたのでなく、純粋に肌の色が濃いことがカッコいいとかカワイイと感じていたことは確実だ。しかもガングロ系は、流石に大ブームにはならなかったが、原宿系ファッションなどが注目を浴びる以前には、一部の日本好き外国人も白人・黒人問わず注目し、真似ていたケースもあったと記憶している。

 このようなことを考慮すれば、欧米では、顔の黒塗り=黒人差別の象徴という認識があるのに、それに無頓着な日本のテレビ、そして違和感を感じないような人々の多い国・日本は、人権後進国だとか差別に対する意識が低いなんてのは、やはり極端で短絡的な発想、若しくは欧米至上主義に染まった考え方であると言わざるを得ない。自分の感覚では、過去に一時期盛り上がった、童話「ちびくろサンボ」やカルピスの商標を指して”黒人差別の懸念”なんて言っていた、よく分からない批判と似たような話にも思える。私たちは黒人に関して一切触れず、見えない事のように扱うべきなのだろうか。それこそ差別なんじゃないかと自分は感じる。

 確かに、近年日本でも朝鮮半島出身者やその子孫などを、出自や国籍だけで不当に差別する傾向は、寧ろ強まっているようにも思えるし、アジア人以外も含めた外国人全てに対する無意識の差別は、日本社会にはまだまだ残っていると自分も感じる。しかしそれは、現在都市部では外国人は珍しくなくなったが、地方ではまだまだ珍しい状況が続いており、大半の日本人が外国人慣れしていないこともそんな現状の理由だと自分は考えている。そんな状況下で、この件のような極端で根拠の乏しい批判が行われたら、外国人に対して積極的に接しようという思いを抑制しかねない。そして何よりもまず、そんな短絡的な発想は、差別を正当化しようとする人々が主張するいかがわしい話と大差ないレベルの言い掛かりに過ぎず、自分には、自らそのような人らと同レベルに成り下がっているようにも思える。
 この件のような主張がされる理由は、差別をなくすことが目的なのだろう。しかし過敏になり過ぎてしまい、逆に溝を深めるハメになるようでは本末転倒だ。差別意識のない人の行為まで、すべてまとめて問答無用で「差別の恐れがある」なんて言ってしまえば、言われた側は「そんなつもりはないのに」と感じ、仲良くしたいという気持ちは減少するだろうから、過剰な被差別認識は何の問題も解決しないどころか、場合によっては事態を悪化させる恐れも充分にあると自分は感じる。

 特に、記事の中で「もうテレビごと捨てちゃいましょう」なんて言っている駒崎さんには、もう少し冷静になって記事を書いて欲しい。「テレビを捨てちゃいましょう」なんてのは、単に「臭い物には蓋しましょう」と言っているに過ぎず、有効な問題解決方法でもなんでもない。自分には「考えが違う者の話を聞くのは止めましょう」と言っているようにさえ聞こえてしまう。


追記:
この記事の続きを”続・顔黒塗り=人種差別?”を1/11に書きました。

このブログの人気の投稿

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。