スキップしてメイン コンテンツに移動
 

毎日新聞は、もしかしたら校閲していない?


 大阪・枚方市の中学3年の生徒が、昨年・2017年の4月、同級生にからかわれたことなどを受けて、校舎2階の窓から飛び降り自殺しようとしたが、傍にいた他の生徒が食い止めて未遂に終わった、という事案が発生し、市教委が同級生のいじめが原因だったとして、いじめ防止対策推進法に基づく第三者委員会を設置していた、という件を毎日新聞が1/8に報じた
 この記事だけでは、どのような状況だったのかがよく分からず、深刻ないじめだったのか、些細なじゃれ合いだったのに当該生徒が過剰に反応したのかよく分からないが、記事によると、その生徒は自殺未遂後、不登校になっているそうで、もしかしらたバツが悪くて行きたくなくなってしまった可能性もあるのかもしないが、恐らく相応の嫌がらせと呼べる行為が続いていたのだろうと想像する。


 いじめが疑われる行為に対して、第三者委員会を設置するなど市教委が積極的に対処していると感じているのか、このようなことが半年以上も明らかにされていなかったのは、市教委に隠蔽体質があると感じているのか、記者がどのような見解に基づいて記事化したかを論調から判断することは難しい。昨年、茨城・取手市で、いじめを苦にした自殺に関して設置された、第三者委員会の調査が不適切として解散させられた件(リンク先は毎日新聞の記事)などを考慮すると、第三者委員会が設置された事だけで、前向きな対応とは一概に言えないだろうが、それでも、いじめられる側が我慢する以外に選択肢がなかった時代に比べれば、相当ゆっくりかもしれないが状況は徐々に良くはなっているようにも感じられる。
 
 少し前置きが長くなったが、今日の投稿で書きたい事は、いじめに関する第三者委員会についてではなく、毎日新聞が冒頭で触れた記事に付けた「大阪・枚方市教委:中3いじめで第三者委 飛び降り図る」という見出しについてだ。


この見出しでは、”枚方市の第三者委員会でも、取手市の件のような不適切な調査が行われたことが発覚したか何かで、そんなことを恥じた委員の一人が、それを理由に飛び降り自殺を図った”かのようなニュアンスを感じてしまう。
 自分はこのブログで、再三、最近いい加減なまとめサイトなどだけでなく、大手メディアでもおかしな見出しをしばしば見かけるということを指摘している。毎日新聞の見出しについては直近の数か月間だけでも、「??」と感じるような見出しを複数見かける印象で、12/21の投稿でも、他の記事の見出しに関して感じた違和感を書いたが、今回の方が更に、見出しだけ読んだ際に誤解を与える恐れが高いと自分は感じる。
 
 毎日新聞と言えば、日本で5本の指に入る全国紙の1つで、当然記者が書いて、ハイ、すぐそのまま投稿なんてことはなく、何人かがチェック・校閲した上でサイトや紙面に記事を掲載しているはずだ。しかし、流石にこんな見出しが掲載されてしまうようでは「チェックや校閲なんて、実際はしてないんじゃないの?」と疑いたくもなってしまう。
 記事の内容にはおかしい点・誇張されていそうな点がないと思えることから考えれば、このような見出しが付いているのは、センセーショナルな見出しでクリックを稼ごう、という短絡的な利益偏重主義などではなく、単純に記者の文章力のなさ、チェックする側の能力・意識の低さに由来するのだろう。やさし目に見れば”うっかりミス”とも思えるが、厳しめに考えれば、大手新聞社の記者・校閲・デスクと言えども、その程度の日本語力しかないとも思えてしまう。
 
 流石にこの程度の見出しだけで「毎日新聞は、いい加減なまとめサイトと大差ない、いい加減な新聞」なんて極端なことは言えないだろうが、毎日見ていると、程度の差はあれど誤解を招きかねない見出しは、それなりの頻度で見受けられるし、そんな状態がこのまま常態化してしまうようなら、毎日新聞という看板の信頼性を下げることにはなってしまうだろう。
 自分が見出しについて指摘する際は、いつも同じような結びになってしまうが、毎日新聞に日本を代表する新聞という自負があるのなら、もう少し気を引き締めた方がよいのではないだろうか。

このブログの人気の投稿

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

風刺/ブラックユーモアと嘲笑の境界について考える

 よしもと所属のお笑い芸人・ 金属バットのネタが差別や偏見を助長する内容だと批判を浴びている ( 「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」 BuzzFeed Japan )。数日前に、同じくお笑い芸人のAマッソのネタが人種差別的だと指摘されたことについて書いたが( 9/25の投稿 )、その時既に金属バットの別のネタも、人種差別的な認識があるのでは?と話題に上っていた( 「黒人が触ったもの座れるか!」吉本芸人のネタに批判 「Aマッソよりひどい」 BuzzFeed Japan )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。