昨年から世界各国で大きな話題になっている、セクハラ・パワハラに関する#Metooというタグを使った動き。このブログでも日本国内での動きに関して、12/19の投稿や12/25の投稿で触れた。日本では声を上げたセクハラ被害の告白に対して、セカンドレイプと呼べるような中傷を行う者も少なくないようで、歪んだ状況になっているのかもしれないと感じるが、どちらかと言えば、世界的には被害の告白が行われることによって、状況改善しなければならないという機運が高まっているように見える。
しかし、どんな動きも必ず拡大解釈する者が出てしまうのが人間の性なのか、「え?それもセクハラなの?」と感じるような極端な主張をする者も、少数ではあるが見かけるし、逆にそんな極端な人の主張ばかりに目を奪われ、#Metooの動き全体が言い掛かりとか難癖かのように中傷する者もいる。セクハラ問題・Metooムーブメントに限らず、要領を得ない極端な人というのは、話を複雑にするだけで問題改善を阻害する存在だとつくづく思い知らされる。
これまで、特に欧米では、#Metooの動きに関して称賛・共感するような表明・報道ばかりが目立っていたが、フランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴさんらが、#Metooのムーブメントは過熱しすぎでいるとして、1/9にその旨をル・モンド紙に寄稿した事が大きな注目を浴びた。ハフポストの記事「カトリーヌ・ドヌーヴの男性擁護、日本でも波紋 「日本は日本の線引でやればいい」の声も」によると、「レイプは犯罪だが、口説くのは違う」とか、「男性たちは制裁を受け、辞職を迫られている。彼らがやった悪事といえば、膝を触ったり、キスを迫ったり、仕事がらみの食事の場で性的関係を求めたり、好意を持っていない女性に性的なニュアンスのメッセージを送ったりといったことでしかない」などと主張したようだ。
自分はドヌーヴさんらが言いたいことは、”確かにセクハラ・パワハラの問題は深刻な状態で、確実に改善の為に何かしなくてはならないが、同時に#Metooの動きに乗じて過剰で極端なセクハラ認定をしようとする人もいる。問題改善も重要だが、それからも目を反らさず、やり過ぎにはやり過ぎときっぱり言うべき。でないと、別の問題が副作用的に発生しかねない”というような話だと解釈する。これは前段で自分が示した懸念の片方と似たようなことで、個人的には「よくぞその点に触れてくれた」と感じた。何故なら、女性でもセクハラ被害者でもない自分がこのような懸念を示すと、極端な人が「お前も結局自分が犯してきたセクハラを正当化したいから、そんなことを言っているのだろう、全然話が分かってない」などの批判をされる恐れがあるからだ。
現にBuzzFeed Japanの「忘年会で「アキラ100%」はやっちゃダメ! セクハラに詳しい弁護士に聞いた」という記事に、当事者間の人間関係や忘年会が行われる場所によっては問題ないケースもあるだろうから、いかなる場合も絶対やってはダメ!という強いニュアンスで法律の専門家が語るのは、言い過ぎなのでは?という旨のコメントを自分がしたところ、見ず知らずの間柄にもかかわらず人を馬鹿呼ばわりするような、極端な返信コメントが返ってきた。
しかし、ドヌーヴさんらの主張の「彼らがやった悪事といえば、膝を触ったり、キスを迫ったり、仕事がらみの食事の場で性的関係を求めたり、好意を持っていない女性に性的なニュアンスのメッセージを送ったりといったことでしかない」という部分は、日本とフランスのお国柄の違いなどもあるだろうが、「いや、それはセクハラに該当する恐れの方が強いでしょ」と思う事も含まれており、そのような事情を考慮出来ない者や、分かってはいるのに、このドヌーヴさんらの主張を根拠に「女性は嫌がらないと思った」などと、セクハラ正当化の理由にしようとする者も出かねないとも危惧する。結局のところ、どちらの懸念も極端な解釈をする者に対する話でしかないが、そのような意味では、ドヌーブさんらの意思表明に関しては、賛同する部分もある一方で懸念を感じる部分もある。
この件に関して、AbemaTVの番組・Wの悲喜劇~過激なオンナのニュース~のプロデューサーである津田環さんが書いた「ドヌーヴたちの書簡は、男性を「擁護」しているつもりは、さらさらない」という記事を、Wの悲喜劇スタッフブログから転載するかたちで、ハフポストが1/12に掲載した。この記事は「ドヌーブさんらの主張を根拠にセクハラを正当化できるということではないから、間違っても勘違いするなよ?」という、前述した極端な者の内、ドヌーヴさんらが懸念を示した側と逆の者を牽制・抑制する為に釘を刺すような内容だ。その内容については全くその通りだと思うし、ドヌーヴさんらの主張と同時にこのような主張がされることは、とても重要だと思う。ただ、セクハラ問題とは別の点で、少し違和感も感じた。
津田さんはフランスへの留学経験があり、フランス人の気質にも詳しいようで、ドヌーヴさんらがあのような主張を表明した背景の一つには「基本的に、会話に水を差す、空気を読まない、ひとを怒らせてなんぼ、がフランスのエスプリ(精神)」、「賛成してても安易に「賛成」と言ったら「負け」という価値観」があるからだという見解を示している。自分もフランス人にそのような気質・傾向があると聞いたことがある。ただ、そのような気質の者を「面倒くさいヤツ」的なイメージを抱きがちな日本人の感覚では、それがドヌーヴさんらの主張が行われた理由だとすることは、失礼に当たるのかもとも思えてしまう、というのがその違和感だ。
しかし、これは誰もが感じるような違和感でもないし、感じるべき違和感でもないだろう些細な話でしかないとも思うし、フランス人が自らそのような気質を誇りに感じていることが窺える場面にも出くわした事もある。津田さんも前述の話の後に「意見に賛成だと言ったら途端に会話がつまらなくなって、その先に進まなくなる。別の視点を加えることで、議論の流れをさらに豊にさせるようなことがよくあります」とも書いており、実際には、津田さんの指摘が失礼に当たるかも、というのは取り越し苦労でしかないのかもしれないとも思える。
ここから自分が何を感じたのかと言えば、国や地域による国民性・民族性の違いは、別の国民・民族から見たら違和感を感じるくらい違うこともあるし、それは決して珍しいことではない。ということだ。例えば、ある行為がセクハラに当たるかどうかも、当事者間の人間関係によっても判断が変わるし、個人個人の感覚でも判断は異なる。だから、セクハラに関する感度を高め過ぎて、人によって判断が分かれる行為を絶対的なセクハラに認定しようとすることは適切ではないし、逆に「これぐらいは大丈夫だろう」という勝手な解釈で、相手が嫌がる行為を強要するのも確実に適切ではない。ただ、何度も言うように感覚は民族やお国柄でも、そして各個人でもそれぞれ違うから、細かい部分ですれ違いが生じることはある程度は仕方のないことだ。大事なのはすれ違いを極力少なくする為に、コミュニケーションを最大限に行うことだと考える。
昨今は何かとコミュニケーションよりも規制!規制!で問題解決しようとする風潮が強いと自分は感じる。確かに規制をすることには即効性があるかもしれない。しかし、コミュニケーションを深める機会を減らしてしまう側面もあり、長い目で見れば余計な溝を深め、結果的に排他的になったり、お互いに尊重し合えないような環境を作ってしまいかねないという副作用もあると考える。それが、ドヌーヴさんらの主張と津田さんが書いていたフランス人の気質に関する話から、自分が感じたことだった。