昨年7月に東名高速道路上で起きた、追い越し車線上で進行方向を塞ぐ形で停車させられた車両にトラックが追突し、その車両の運転手らが死亡した事故。直前にパーキングエリアで注意を受け、逆上し道を塞ぐように自身の車を停車した運転手が、停車させられた側の運転手らを脅し、道路上に引っ張り出したところに後続のトラックが追突し、停車させられた側の運転手とその妻が死亡した事件だ。現在係争中の事件なので詳細が確定している訳ではないが、報道によるればこのような経緯に概ね間違いはないだろう。この件によって煽り運転や危険運転などが注目を浴び社会問題化している。この逆上した運転手は、この事件の前後、事件の前だけでなく、事件後にも似たような行為を繰り返していたようだ。そして、このような死亡事故・事件が報道されても尚、同様に進行方向を塞ぐように車を止め、後続車を停車させ暴言を吐いたり、場合によっては暴力行為に及び、警察の厄介になる者が出たという報道が複数されている。
東名高速の事件について警察は当初、過失運転致死傷の疑いで捜査していると報じられていた。「より責任の重い危険運転を適用してもよいのではないか」という見解はその頃からあったが、車を停車させた後に事故が発生している為、危険運転には該当するとは言えないという話だった。しかし、そのような報道を受けて、ネットなどを中心に「後続のトラック運転手が過失運転の罪に問われているのに、高速道路の追い越し車線で進行方向を塞ぐように車を停車させ、事件のきっかけを生じさせた者が同じ罪にしか問えないのはおかしい」とか、「高速道路上はやむを得ない理由がなければ停車することは出来ないし、そもそも高速道路上で、しかも追い越し車線に自信の車を停車させるという行為は運転行為の結果だし、過失”運転”が適用できるなら危険”運転”にも該当すると言えるのではないか」などの声が高まり、警察は危険運転容疑での捜査に切り替えた。
TBSニュースの記事によると、今後行われる裁判で、危険運転の疑いが掛けられている容疑者の弁護側は、警察が当初主張していたのと同様の、運転中ではなく車を停車させたあとの事故であるという理由で、危険運転致死傷ではなく、容疑者の行為は過失運転致死傷にとどまる、という主張をする方針だそうだ。要するに、刑の上限が懲役20年の危険運転致死傷ではなく、7年が上限の過失運転致死傷で済ます、済ますというと語弊があるかもしれないが、酌量を求めようという方針なのだろう。
自分はこの方針には大きな違和感を感じる。「運転中ではなく停車させた後の事故」という理由を主張するなら、過失”運転”致死傷ですらないと主張するはず、例えば、業務上過失致死傷などに当たると主張するべきではないのか。TBSがどの程度正確な取材をしているのかも分からないし、記事を書いている記者が大雑把に表現している恐れがないわけではないが、もし取材が適切に行われており、担当弁護士が実際にそのように言っているのであれば、理解出来るような話ではないと自分は感じる。
ネット上では「危険運転でも甘く、殺人罪を適応するべき」なんて声もあるようだが、流石に明確な殺意を持った上で車を停車させたとまでは言い難い。それでも自分には、追い越し車線に車を停めた行為は運転行為であると思えるし、追い越し車線に故意に車を停めれば、後続車が追突する恐れがあることは充分想像できるだろうから、偶発的に不意に停車してしまったのではなく、故意に車を停めたことを考えれば、危険運転を適用できるのではないだろうか。
なぜ、過失運転か危険運転か、どちらの適用が適切か、という話が出てくるのか、と言えば、法律の条文の中で明確にそれらが区分されているとは言えず、解釈によってはどちらに該当させても整合性が崩れないケースもあるからだろう。確かにそのような状況は法の不備とも言えるかもしれないし、法の条文を考える際には出来る限り、解釈によって判断の幅が生まれることが無いような文面にすることも重要だ。しかし、どんな条文を考えようが、新たに出てくる全てのケースについて万能である条文を考えるのも、かなり難しく、その実現は非現実的ではないだろうか。制定から時間の経った条文が余りにも状況にそぐわなくなったら、条文の改定が必要だろうし、改定の際はその時点で懸案になっている全ての事柄について、明確に判断できる内容でなくてはならない。
しかし、判断が分かれる事案というのは確実に、しばしば起きるし、その度に条文を改定するというのも場当たり的過ぎて適切とは言えない恐れがある。だから裁判所や検察・弁護士などが存在し、解釈や判断による権利の対立などを解消しているのだろう。全ての法が誰にでも同様に解釈出来る内容で、一切判断に幅が生まれる恐れがないのなら、裁判は検察も弁護士も必要ない単なる手続きで充分のはずだ。厳密には、法が定める量刑に幅があり、ケースバイケースで適当とされる量刑は変わるし、事実の確認も裁判の過程で行う必要がある為、一切必要ないとは言えないかもしれないが、それでも今より確実に検察や弁護士の仕事は減るはずだ。
現在自民党、というか安倍首相が中心となり、憲法、特に9条の改定の必要性を訴えている。確かに、現在の9条、というか日本国憲法は全体に曖昧な部分も多く、判断の幅が生まれる余地も多い為、より判断の幅が狭まるように憲法を改定する必要はあるかもしれない。しかし、日本国憲法では、詳細については法律でこれを定めるとするという旨の記述も多く、法律で適切に補足されていれば、憲法自体は曖昧であっても問題なく機能するとする見解もあるし、元来そのように設計されているという話もある。しかも、自分には現在首相が唱えている改定内容では、結局曖昧な部分は曖昧なまま残るように思える。そして首相は、憲法、特に9条に関しては、改定し自衛隊を明文化したとしても、直ちに何かしらの変化が起きるわけでもないし、政府としてのこれまでの方針が大きく変わるということもない、という旨の発言もしている。ということは単に自衛隊を明文化したいから明文化するというだけのことなのではないか?と思えてしまう。要するに、内容云々ではなく、自主憲法制定ということ自体が目的化していると首相自身が認めているということではないだろうか。
自分にはそのように感じられるため、憲法改定議論は必要だとは思うものの、今の自民党で主流である改定案には全く賛同出来ないし、早急に憲法の改定が必要とも思えない。首相は自衛隊に関して「君たちは憲法違反かもしれないが、何かあれば命をはってくれ』と言うのは、あまりにも無責任」という旨の発言をしている。確かに自衛隊は憲法違反であるとする見解もあるが、現在、自衛隊は憲法違反だと声高に訴える機運が高まっている訳ではないし、違憲であるから直ちに解体せよという運動も世論も全く盛り上がっておらず、焦って対応する必要性など全くないのではないだろうか。しかも、現在の自衛隊員らの多くはそんな議論があることは重々承知の上で自衛隊員に志願したのだろうから、組織としての正常化を望んではいるだろうが、自衛隊の9条への明記を緊急性の高い課題とは認識していないのではないだろうか。要するに焦って憲法、特に9条を改定しなければならないこれと言った理由があるとは思えない。
憲法の改定よりも必要なのは、憲法裁判所の設置だと自分は考える。現在日本には憲法裁判所がなく、その役割は最高裁判所が兼ねている。しかし最高裁判所の判事も、その長官も行政機関の長である内閣総理大臣が指名することになっているし、これまで統治行為論という話を基に、最高裁は高度に政治的な事案について、憲法解釈などに関して、複数回判断を避けてきた経緯がある。「自衛隊は違憲であるという憲法解釈が出来てしまうような条文は問題だから、憲法の改定が必要だ」という旨の発言で、安倍首相、というか安倍自民党総裁は曖昧な条文の問題性を訴えているが、彼の政権は、これまでのどの政権も一貫して、憲法に反するとして認めてこなかった集団的自衛権を、憲法解釈の変更を閣議決定するという方法で、一方的に容認できるとした。この解釈変更だって曖昧な条文を利用した判断ではないだろうか。曖昧な条文を利用し、過去に積み重ねられてきた判断を覆した者が、条文の曖昧さを憂慮しているのはとても滑稽だ。
今の日本では、最高裁が高度な政治的判断は避けるとしているのだから、この現政権の解釈変更が適切だったかどうかをチェックする機能が欠けていると言えそうだ。”チェック機能がない”ではなく、”欠けている”としたのは一応国会があるからだ。しかし、行政の長・内閣総理大臣は国会の多数派である与党から選ばれる為、現在の日本では行政と国会・要するに行政と立法の一体感はかなり強く、適切にチェック機能が働いているかには疑問がある。しかも、もう一つのチェック機能である最高裁は判断を避ける傾向にあるのだから、適切にチェック機能が働いているとは言えないだろう。
そんな理由で、憲法改定を検討するのなら、性急に議論を進めようとするのでなく、憲法裁判所の必要性も同時に検討して欲しい。現政権与党は、特定秘密保護法にしろ、安保慣例法制にしろ、共謀罪法案にしろ、森友加計学園問題にしろ、時間さえかければ議論の内容に関係なく「充分な議論が行われた」とし、半ば強引に(個人的には半ばでなく、完全に強引であると考えている)数で押し切る傾向がある。首相も言っているように、憲法改正については、最終的には国民投票で判断が下されるわけだが、国民投票を行うのもタダではなく多額の予算が掛かる。今首相や自民党の主流が検討しているような条文への改定には意義があるとは思えないし、意義のない条文への改定をするべきかどうかなんてことに多額の予算を割いて欲しくない。勿論意義を感じる人もいるだろうことは理解している。
国民投票を行う前に、国民に判断材料を提示するのは国会の役目でもある。そんな観点から考えれば、これまでのように強引な手法で国民投票に持ち込むなんてことは絶対に控えて欲しいと考える。