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正しければ問題ない、とは言い難い話


 オリンピック最大のスポンサー企業(厳密にはスポンサーではなく、放映権取得に支払った額が、オリンピック最大の収入源になっているということ)と言われる、アメリカのテレビ局・NBCが平昌オリンピック開会式の中継の中で、安倍首相の出席に関して取り上げた際に、日本について「1910年から45年まで韓国を占領した国」と紹介し、

しかし、どの韓国人も自らの変革にとって、日本は文化面でも技術面でも重要な模範となってきたと言うでしょう

と続けたそうだ。これに関して、韓国内で批判が強まっていたようだが、朝日新聞の、ニューヨークタイムズの報道を引用する形式の記事によれば、NBCテレビは「これらの発言に韓国の人々が侮辱されたと理解し、謝罪する」という見解を示したそうだ。
 日本人の自分からしてみれば、「敏感な韓国の国民感情に、余計なことを言って火に油を注ぐようなことをするな、日本にしてみてばいい迷惑でしかない」としか思えない。

 
 この朝日新聞の記事を転載したハフポストの記事へのコメントを見ても分かるように、「本当のことを言っただけ」とか、ヒステリックな韓国人にウンザリ、というような割と残念なコメントが目に付く。ツイッターなどでも同じような主張が多く見られる。自分も彼らの主張が”言語道断な全くの間違い”とまでは思わないが、彼らも結局、NBCテレビで前述のような発言をした者と同様に、配慮に欠ける自己中心的な傾向が強い人達のように思える。また、彼らが批判し敵視しているような、一部のヒステリックなまでの反日傾向を持つ韓国人と大差ないレベルの人達のようにも見える。批判している対象と同じようなレベルの発言をしていることには、本人たちは気が付いていないようでとても滑稽だ。
 
 彼らのようなコメントは不適切だと思うが、一方で「言語道断で全くの間違いだ」とまでは言えない理由は概ね2つあると考える。それは戦前の話と戦後の話だ。
 まず戦後の話について。戦後、日本は、というか戦前からかもしれないが、欧米にまず追いつくことを目標とし、欧米の様式を積極的に取り入れ、最初は模倣することから始め、80年代以降の経済的な発展を実現した。現在日本では、「中国人はマナーが悪いとか、著作権の意識が低く、何でも勝手に真似して無断使用する」というような認識が強い。しかし日本も前回の東京オリンピック以前は、街中に平気でゴミが捨てられるようなマナーの悪さだったそうだし、80年代からバブルの頃は、日本人が海外にバンバン旅行に出かけ、今の中国人と同じようにマナーの悪さを指摘されていた。産業面でも、例えばオイルショック以前の日本車は”安かろう悪かろう”の象徴だったようだし、80年代前半までは、少し前まで韓国車がデザインなどの点で、他国の自動車を真似た”出来の悪いイミテーション”と揶揄されていたのと同様に、70年代の日本車は主にアメリカ車のデザインを確実に模倣していたし、80年代に入ってアメリカ車の相対的価値が下がると、今度はヨーロッパ車、特にドイツ車のデザインを模倣していた。90年代以降は流石にそのような傾向は低くなったが、今でも軽自動車のデザインなどでは、他国人気メーカーのデザインを明らかに真似ていると言えるものがまだまだ存在している。
 一応補足しておくと、各ジャンルの自動車のデザインが、そのジャンルで最も人気のある車種に似てくる傾向は、日本や韓国メーカーに限らず欧米メーカーでも似たような状況で、流石に一部の中国メーカーのような”そっくりそのままイミテーションコピー”でもない限り、大きな問題になるケースは多くない。また、日本車が欧米メーカーに真似られるケースも少ないとは言えない。
 そんな風に敗戦後の日本が欧米を模倣することを発展の礎としたように、韓国は朝鮮戦争休戦後から復興し現在に至る過程、特に70年代後半から90年代にかけて日本の模倣をしていた時期が確実にある。日本だけでなく欧米の模倣もしていたのは事実だが、重厚長大産業にしろ、電気機器・自動車産業にしろ、距離的に近い日本企業の技術供与を受けること、真似ることで、今は日本や欧米の企業に引けを取らない韓国企業・産業の素地が作られたことは間違いない。韓国は多くの産業分野で、そのような日本など他国の模倣することから既に脱却し、特に電気機器では確実に日本の企業を追い抜いて、安いそこそこ製品で稼ぐ時期からも脱しているし、自動車も既に日本車同様、と言っても日本車は信頼性の面では群を抜いており、まだその点の優位性では韓国車を凌駕しているだろうが、日本車より更に安く、且つ価格以上の信頼性を両立させることで、特に新興国市場などで徐々にシェアを広げるようなレベルに到達している。電気製品に関してはサムソンやLGなど、日本でも商品が販売されているが、自動車に関しては日本メーカーの優位性もまだまだ高く、日本に参入している韓国車メーカーがないので日本人には馴染みがないだろうが、シボレーは一部韓国車のOEMモデルを日本でも販売しているし、韓国車メーカー・起亜はテニス4大大会の一つ、オーストラリアオープンのメインスポンサーになる程の存在感を示している。ただ、電気機器にしろ自動車にしろ、日本メーカーと同じ様なことをウリにすることで、これまで韓国企業が発展してきたことは事実で、そういう意味では、日本は韓国の”重要な模範(の一つだった)”という話はあながち間違ってはいない
 
 次は戦前の話。日本が韓国(朝鮮半島)を併合し植民地化したのは誰も否定出来ない事実だ。韓国併合を正当化しようとする人達の多くは、「当時、明治維新前の日本同様、近代化に後れをとっていた韓国は、日本に併合されたことで日本から近代的な制度が持ち込まれたのだから、併合は間違っていなかった」というような話をしばしばする。確かにそのような側面があったことは否定できない。しかし、日本が韓国を併合し日本化政策を押し付けたり、韓国人を労働力などとして搾取することで韓国独自の近代化が阻まれたとも確実に言える。両方の側面を考慮すれば、日本が韓国の元宗主国であると前置きした上で、「日本は韓国の重要な模範」と表現することを、韓国の人々が受け入れられるはずがない
 NBCはアメリカのテレビ局だ。アメリカも帝国主義全盛時代は植民地を複数持っていた搾取する側の国だった。それを考えれば、前述のような表現は「元宗主国が自分たちの過去、植民地化の暗い部分を度外視し、正当化する為に用いた都合の良い解釈」のようにも思える。配慮が足りないと批判されても言い返せないような表現、としか自分には思えない。
 
 自分はこのように考えるので、確かに日本が韓国の重要な模範であったと言える事実はいくつか存在するが、わざわざ韓国の国民感情を逆撫でするような表現を、しかも韓国で開催されているオリンピック開会式の中継中に用いることは不適切、としか思えない。
 要するに、NBCテレビの放送で用いられた表現は、一部の韓国の人々の反日感情を無駄に煽っただけで、誰も得しないものだろう。一部の嫌韓日本人の気分をよくしたのだろうから、厳密に言えば、一部の嫌韓日本人だけは得したつもりになっているかもしれない。しかし多くの良識ある日本人にとっては、「余計な波風を立たせるようなことを言うな」としか思えない話でしかない。

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