スキップしてメイン コンテンツに移動
 

日本は、義理チョコをやめる必要があるのか


 2/14のバレンタインデーを前にして、ゴディバジャパンが「日本は、義理チョコをやめよう。」というコピーを用いた全面広告を日本経済新聞に掲載したそうで、ネット上で大きな話題となり、共感だったり、異論だったり、賛否両論多くの主張が繰り広げられている。批判だけでなく賛否両論のある議論を起こし、更に複数のメディアでこの件が報じられた、言い換えれば大きな注目を浴びたという事だけで、広告としては大成功と言えるだろう。BuzzFeed Japanもこの件を取り上げており、その記事によれば、ゴディバジャパンは義理チョコの存在を否定するわけではないとし、「義理チョコの是非を問いたいわけではなく、バレンタインデーをもっと好きになってほしい」という意図で、このような広告を掲載したそうだが、「義理チョコをやめよう」と否定的なコピーを使っていることを考えれば、広告としては素晴らしいかもしれないが、義理チョコの存在を否定するわけではないという話はやや無理があるようにも感じる。

 
 広告や記事の中でゴディバジャパンが主張しているように、確かにバレンタインデーに、女性たちが意に反して義理チョコを贈らざるを得ない、半強制的な風習と化している職場もあるのも事実だろう。そのような視点で「義理チョコをやめよう」と訴えている事も理解出来るが、その一方で”日本は”という主語でコピーを始めている点から、そのような視点にとどまらず、義理チョコ全てが不必要というニュアンスに見えてしまわなくもない。広告だから、少し「えっ!?」と思うようなコピーで見る者の興味を惹くことは、ある程度許容するべきなのかもしれないが、昨今、特にネット上で、クリック数を稼ぎ利益を最大化することを目的とし、見る側を積極的に誤解をさせてそれを達成しようとする手法、必要以上に誇張した表現、場合によっては明らかに事実に反する表現が、見出しに用いられる場合が決して少ないとは言えないこと、そのような見出しが掲げられている記事の内容自体には大きな問題がなかったとしても、見出ししか読まない者が勘違いしたまま事実と反する情報を拡散してしまう恐れがあること、などを考えると、流石にこのゴディバジャパンの広告のコピーは直ちに不適切とは言えないが、もう少し広告の意図が明確に伝わり、誤解の余地のないコピーを使った方が良かったのではないか?とも感じてしまう。
 
 また、ゴディバジャパンはチョコレートの企業なので、義理チョコに関して問題提起をしているのだろうが、ゴディバジャパンが義理チョコに対して示した懸念は、実は義理チョコに限った話ではなく、お中元、お歳暮、お年玉、もっと解釈を広げれば、暑中見舞いや年賀状についても同じようなことが言えると自分は思う。
 暑中見舞いや年賀状、お中元やお歳暮は近年どんどん送る人が減っているので、人によっては義理チョコ程の義務感はないかもしれない。しかし逆に言えば、義理チョコの方が義務感は薄いと感じる人もいるだろう。バレンタインの義理チョコについて、贈りたいとは思わないという意思に反して、義務感に駆られてしぶしぶ贈る者がいるように、お中元やお歳暮、お年玉なども意思に反してしぶしぶ贈っている者がいるだろう。また、バレンタインの義理チョコを自ら進んで贈る者もいるが、贈られる側が、ホワイトデーの返礼の煩わしさなどを理由に、贈られることを好ましく感じない者もいる。この状況は、贈る側が贈られる側に返礼の義務感を与えてるとも言える。返礼の義務感が生じるのはお中元・お歳暮、お年玉(お年玉の場合は貰った子供の親など)なども同様だ。確かに、そのような義務感や、贈る物・返礼品の手配などは煩わしいと感じられる場合もあるが、何かをお互いに贈り合うことで新たなコミュニケーションが生まれる場合も確実にある。だから、一概に義理チョコ(や、お中元・お歳暮・お年玉・年賀状)などが、必要ない不適切な風習とも言えないと自分は思う。
 
 「バレンタインデーの趣旨は、好意を抱く者へその気持ちを伝えることだから、その趣旨とは意味合いが異なる義理チョコは必要ないのではないか」と考える者もいるようだが、バレンタインデーをどのような日・イベントと捉えるかなども個人個人で差があっても何の問題もないはずだ。ということは、意中の者以外へ社交辞令的に義理チョコを贈るという、お中元やお歳暮的な行為があっても良いのではないだろうか。
 例えば、近年盛り上がりを見せているハロウィンも、子どもがお化けに扮して「お菓子くれないと、いたずらするぞ」と近所を回るという欧米のスタンダードな様式とは異なり、日本では大人も子供もただただ仮装しお祭り騒ぎするイベントと化しているし、現在の欧米でスタンダードな子供がお菓子をねだる様式も、時代を経た結果、元々の、本来のハロウィンとは違った形になって出来上がったもののようだ。キリストの生誕と復活を祝うはずのクリスマスだって、日本ではキリストなど殆ど意識はせず、子どもがサンタクロース(というか親)にプレゼントをねだる日になっているし、欧米では家族と過ごす日という認識が強いのに、日本では、最盛期よりは少しそう考える人は減っているのかもしれないが、恋人と過ごす日という認識の方がまだまだ強い。
 というか、そもそも女性から意中の男性へチョコレートを贈る日という認識は、ほぼほぼ日本のお菓子会社が作り上げたものという説もある。要するに「バレンタインデーの趣旨に反するから義理チョコは必要ない」と言う話は、必要ないと考える者が、説明の為に根拠を後付けしているに過ぎない、と言っても問題ないだろう。
 
 義理チョコにしろ、お中元・お歳暮にしろ、お年玉・年賀状にしろ、一般的な風習なので義務感が生じているのは間違いないが、どれも贈ることが法律や憲法で義務付けられているわけではないので、贈りたくなければ、贈らなければいいだけではないだろうか。それが昨今特に如実に現れているのが年賀状を送る人の減少だと思う。勿論贈りたいと思うかや、必要性が高いか低いかを議論することには何も問題ない。意見の異なる人同士がそれぞれに主張し、互いの考え方を知り、ある程度理解し合うことはとても重要だ。
 ただそれでも、個人的には「日本は、義理チョコをやめよう」というコピーは、やや押し付けがましく感じられるので好感を持てないし、「義理チョコ=絶対悪」かのような主張をする人を見かけると、偏った人・自分こそが正義と勘違いしている人、排他的な人、なんだろうなと感じてしまう。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。