平昌オリンピック・スピードスケート女子500mで小平奈緒選手が見事金メダルを獲得したそうだ。競技を終えた後のTBSアナウンサーのインタビューが話題になっている。小平選手に対してTBSの石井大裕アナウンサーが「闘争心あふれる、まるで獣のような滑りでしたね」と感想を伝えたことに対して、ツイッター上などで一部の人が「女性に対して使う言葉じゃない」とか、「私が小平さんなら怒っている」「もっと他の表現を使って欲しかった」など、不快感・批判を表明している。
個人的な受け止めを表明するのがツイッターの本来の使い方であり、他人を誹謗中傷するなど、不当な不利益を与えないような主張であれば、不快感や批判の表明も全然構わないが、自分も同様に個人的な受け止めを主張させて貰うと「批判している人達の主張の方こそ難癖」のように思える。
読売新聞の記事によると、この石井アナウンサーの問いかけに対して、小平選手は「獣かどかわからないですけど・・・」と苦笑しつつも「躍動感あふれるレースができたと思います」と答えたそうだ。自分は実際のインタビューを確認していないので、読売新聞記事の”苦笑”という表現が妥当なのかどうかは分からないが、実際に小平選手が”苦笑”したのなら、単に耳慣れない表現に面食らっただけの可能性もあるが、「まるで獣のような」という表現をやや不快・若しくは違和感を感じた恐れもある。
しかし、読売新聞の記者に”苦笑”に見えただけで、もしかしたら本当のところは単なる”愛想笑い”だったかもしれない。日本人には謙虚な人も多く、例えば「至上最高の滑りでしたね」と問いかけれられれば、愛想笑いをした上で「至上最高かどうかはわからないですけど」と答える場合もあるだろう。この”至上最高の滑り”と同様、”まるで獣のような”は過剰な賞賛などと小平選手が捉え、笑みを浮かべた上で「獣かどうかわからないですけど」と答えた可能性が全くないとは言いきれない。勿論実際どうだったのかは小平選手のみぞ知るところだが、一つの言葉に複数のニュアンスが込められることもあるだろうし、圧倒的にどちらかの可能性しかない訳でもないのではないだろうか。
何よりもまず、個人的には「闘争心あふれる、まるで獣のような滑り」が女性に対して失礼という感覚が理解出来ない。もし女性の容姿に対して「獣のような」と評したなら、ワイルドという意味合いの場合もあるだろうし、問答無用で失礼だとまでは言えなくても、「失礼だ」と批判が起きることは理解できる。しかし石井アナウンサーは彼女の闘争心や身体能力について「獣のようだった」と評しているのだから、表現を好むか好まないかは別として、失礼には当たらないのではないか。
野獣とか獣などの表現は格闘家などに対する賛辞としてしばしば用いられる表現だ。例えばレスリングの吉田沙保里選手は世界大会16連覇・オリンピック3連覇を果たし、「霊長類最強女子」と評された。現役引退した今でもしばしばそのような表現が用いられるが、問題視されているという話を少なくとも自分は聞いたことがない。確かに吉田選手を直接的に獣・野獣と呼ぶ人は決して多くないだろうが、人類最強ではなく霊長類最強ということは、ゴリラやオランウータンなどの人間以外の所謂獣も含まれているのだから、「獣のような」と似たようなニュアンスが含まれているように自分には思える。
また、「獣のような」という表現でなく、例えばスピードが速いと言う意味を込めて「チーターも顔負けの滑り」などの表現だったらどうなのだろう。確かに”獣”という言葉には”野蛮な”というニュアンスが含まれる。”チーター”という足の速い動物だというニュアンスを強く感じさせる言葉に比べて、”獣”という言葉に野蛮さを強く感じる人は決して少なくないだろう。しかし、チーターも肉食動物であることには変わりなく、間違いなく”獣”の一つだ。だとすれば、過敏になれば、「チーターのような」とか「チーターも顔負けの」なんて表現も「女性に対して失礼」ということにならないだろうか。これ以上言えば揚げ足取りになりそうで少し不安だが、それ以外の動物、例えば子猫や子犬に例えることも、結局”動物=獣”に例えることに変わりなく、失礼ということになるのだろうかと疑問に思う。
また、「私が小平さんなら怒っている」という見解は、単に個人の感覚の表明しただけとも言えるだろうが、視点によっては「小平さんはあの場ではこらえたが、(私と同じように)些細なことでも気にするような繊細な人だ」と考えているようにも思え、言い換えれば、「小さいことで怒り出す神経質な人」だと、場合によっては間接的に小平選手を貶すことになる恐れもあるかもしれないと懸念する。自分は小平選手が金メダルを獲得した後、2位になった仲の良い韓国人選手を思いやっていた姿を見る限り、小平選手は、たとえ「獣のような」という表現に一瞬は引っかかったとしても、その程度の事で憤慨するような了見の狭い人とは到底思えず、小平選手の思いを勝手に代弁するような手法で、個人的な受け止めを押し付けようとするのはどうかと思う。
しかし、「もっと他の表現を使って欲しかった」程度の、石井アナウンサーの表現が好みでないと表明するような主張は全然問題ないだろう。そんなことまで批判するようなら、これを書いている自分も、必要以上に「獣のような」という文言を批判している人たちと大差なくなってしまう。
昨今、”言葉狩り”という言葉が拡大解釈され、濫用される傾向がしばしばみられるので、あまり好きな表現ではないが、このような批判こそ、まさに”言葉狩り”に該当する事柄なのではないだろうか。