大学生の頃、自分は予定のない休みが大嫌いだった。予定のない日はほぼ全て日雇い派遣・主に引っ越し補助などのアルバイトをしていた。実家から大学に通っていた為、カツカツにアルバイトをしなければ生活出来ないわけではなかったが、家でゴロゴロしているのは時間を無駄に消費している様で嫌いだった。概ね20代の間はその傾向が続き、大学卒業後も本業が休みの日でも予定のない日はアルバイトを続けていた。最近はその頃のような感覚はなくなったし、流石に体力も当時に比べたら衰えているし、率先して1週間に7日間働きたいなんて思わなくなった。ただ、働いた分だけ給料が貰えるのなら、本業の給料では到底届かないような、何か高額なものが欲しくなるなどの明確な目的があれば、また休みの日に働こうと思うかもしれない。
今どうなっているのかは知らないが、当時の日雇い派遣のアルバイトは、引っ越し補助や荷揚げなどの肉体労働からビラ/ティッシュ配り、倉庫内での仕分けやピッキング作業、ショッピングセンターなどでの着ぐるみ演者、物産展等の売り子など、様々な仕事に行かされた。自分が登録していた事務所は大学生や同年代のフリーターが多く、肉体労働は敬遠されがちで、ビラ配りや仕分けなどを割り当てられることが”当たり”とされていた。確かに肉体労働系の現場に女性は殆どいないし、女性アルバイトが派遣されることはまずない。男子学生の多くは同世代の女の子がいる現場を、男しかいない現場に比べれば望ましいと感じるだろうし、どんな現場だろうが時間給で給料が変わらないなら、疲れる現場よりも比較的疲れない現場の方が魅力的だったのだろう。勿論、コミュニケーション能力に自信のない人間など、肉体労働を好む者も少数ではあるが存在していた。
自分もどちらかと言えば肉体労働の方が好きだった。若い女性のいる現場にも相応の魅力はあったが、フリーターと違って大学でも同年代女性との接点はあったし、クラブミュージックが好きでちょくちょく遊びに行っていたので学校以外の女友達も多く、バイトの現場での出会いの可能性について自分は全然重視していなかった。また、大学生になりたての頃にスポーツジムに通っていたのだが、日雇いで肉体労働のバイトに行くようになってからすぐに退会した。当時の自分は「スポーツジムでは運動するのにお金を払わなければならない。しかし肉体労働現場では体を動かしてお金が貰える。スポーツジムに通うのは馬鹿馬鹿しい」と考えていた。肉体労働現場は大体朝が早く、早起きしなければならないことだけが短所だったが、感じていた日雇い肉体労働のメリットと比較すれば、何でもないことだった。
大学生の頃は週に1-3日程度働く割合だったが、卒業後は本業と合わせて月に27-30日前後働いているような状況だった。例えば、週休2日制の会社に勤務し、週5日以上働いても給料に変化が全くないのなら、そんなに働こうとは全く思わないだろうが、当時は前述のように、予定のない休みが大嫌いだったし、運動(のような労働)をして且つ給料も貰えると考えていたので、どちらかと言えば率先して、人によっては過重労働と感じるような状態を作っていた。しかし自分は、2/19の投稿にも書いたように、サービス残業を強制され、満足に休日も貰えないような酷い労働環境も経験している。
裁量労働制とか働き方改革については様々な視点による見解があるだろう。長時間労働の抑制とか、インターバル規制の重要性などを語る際に、メディアで意見を述べる者は個人事業主/フリーランスであることが多く、そのような人達の多くは、個人が率先してやりたい仕事を長時間しているようなことが多いように思う。政策を議論している人も、それを批評する人も、一般的な労働者ではない人ばかりであることに少し違和感を感じる。また、自分は個人事業主の経験は短いが、フリーランスとはいえ、取引先に無理な仕事を押し付けられ、生活を維持する為に不本意ながら低賃金で過大な仕事をこなしている場合も決して少なくないように思う。何故なら、うまみの薄い仕事でも断れば次から仕事がもらえなくなるかもしれないという思考が働くことも多いからだ。
この投稿で示したように長時間労働でも、働いている側が不利益を押し付けられず、ちゃんと給料が支払われていたり、給料以外のメリットを感じられていれば、大きな問題はないのだろうと感じる。個人がどれだけ自分の趣味に労力を注ごうが、日常生活に支障をきたさない限り、他人に不利益を与えない限りは、誰も「やり過ぎだ」と咎めることは出来ない。世の中には仕事と趣味が重なっている人もいる。ということは、本人が望む限り、寝る間を惜しんで働き、その結果死に至ろうが、当然周りの者は認めたがらないだろうが、極端に言えば本人にとってはある意味本望なのではないだろうか。
しかし、しばしば報道される過労死・過労自殺事件は、その多くが働くことを暗に強制されたり、そうせざるを得ない状況に仕向けられていたことが原因で起きているのだろうから、絶対に混同してはならないことも間違いない。
時事通信の記事によると、首相や厚労大臣は、厚労省が一般的な労働者と裁量労働制の労働者の労働時間について不適切な方法でデータを取りまとめ、それを根拠に首相が答弁を行ったり、働き方改革法案作成の為に用いられていた件について、「労働時間の再調査を行う必要性はない」という見解を示したそうだが、自分には彼らが「適切に現実を把握する必要はない」と言っているように見えてしまう。
また別の記事によれば、本日、この件を受けて今国会に提出される働き方改革法案に盛り込まれる予定だった裁量労働制の拡大について、法案成立は予定通り目指すものの、その施行を1年延期することを、政府が検討していることが明らかになったそうだ。不適切な調査結果に関して、再調査をせずに時期だけ延期しても、正しい判断が行えるとは全く思えない。何よりもまず批判を和らげることを狙ってこんな中途半端なことを言っているとしか思えない。こんな話を見ていると、所謂庶民的な社会人経験の殆どない首相には、私たちが肌で感じている現状とは全然違う状況しか見えていないのだろうと思えてしまう。もし与党内で適切な反論が起きないようなら、与党は首相に右へ倣えするだけの、議論する能力すら持ち合わせない装置に過ぎないということなのだろう。国会における質問時間の拡大を昨年来訴えているが、そんな話の合理性は殆どないことを裏付けることにもなりかねない。
自民党や政権支持者の多くは消極的支持者だそうだ。彼らは「自民党や現政権を全面支持するわけではないが、体たらくな現野党勢力よりはマシ」と考えているらしい。確かに自分も現野党勢力には強く頼りなさを感じるし、現在、野党で最も支持率の高い立憲民主党も、東日本大震災・福島原発事故発生当時、官房長官として会見で不可解な見解を示していた者が党首であることを考えると、積極的に支持したいとは思えない。しかしそれでも、これだけ不利な資料・情報の隠蔽疑惑が立て続けに起こり、憲法改正を積極的に訴えているにも関わらず、憲法の精神を軽々と無視するような解釈を示す政権の方がマシだとは全く思えない。