トランプ大統領は、フロリダ州の高校で17人が死亡する銃乱射事件の発生を受けて、事件に巻き込まれた生徒らや過去の銃乱射事件の被害者遺族らと面会したそうだ。TBSニュースの記事によると、銃規制を求める面会者らに対してトランプ氏は、銃購入の際の経歴調査の強化を検討すると述べたそうだが、一方で「もし亡くなったあの勇敢な教職員が、ロッカーに銃器を持っていたら、もっとたくさんの命を救えていただろう」とも述べたそうだ。
このような、銃があれば被害は抑えられるというような抑止論的な考え方は、乱射事件が起こる度に銃規制に消極的な者らが示す典型的な主張だ。しかし、昨年・2017年10月に起こった、ラスベガスのライブ会場を狙った乱射事件では、ホテルの高層階から銃が乱射されており、誰かが銃を持って応戦していたら被害が軽減していたとは考え難い。今回のフロリダの事件でも教職員が銃を持っていたとしても、彼らが犯人を見つけ出して射殺するまでには相応の時間が必要だっただろうし、それでも確実に犠牲者が出ていただろう。
確かにトランプ氏の言うように教職員が銃を持っていれば、乱射した犯人を射殺することで被害はもう少し小さくすることが出来たかもしれない。しかし、そもそも銃を容易に入手できるような社会情勢でなければ、乱射事件自体に至らなかったかもしれない。銃を容易に入手できる状況が、乱射事件が頻繁に起きてしまう大きな要因になっていることを、トランプ氏を始めとした銃規制に消極的な人々は過小評価しているとしか思えない。
個人的にはアメリカでも原則的な銃所持禁止が行われるべきだと考えているが、そもそもアメリカでの長期生活経験のない自分のような者は、根本的にアメリカ社会における感覚を充分には理解できていないだろうし、また、人口以上の丁数の銃が社会に存在している現状では、全面規制が即実現できるはずもない。原則的には銃所持規制を目指すべきという話が正しかったとしても、そう簡単な話ではないのも事実だろう。例えば、過労死・過労自殺が後を絶たないにも関わらず、日本で長時間労働を一朝一夕に解決できないことと、アメリカの銃の問題は似たような性質を持った話かもしれない。
銃規制に消極的な者の中には「悪いのは不適切な者が銃を扱うことであって、銃が悪い訳ではない」などと主張する者が、アメリカ人だけでなく日本人の中にもいる。また、「刃物や自動車を用いた無差別殺人に移行することも考えられるので、銃だけを規制しても仕方ない」というような主張もしばしば見かける。確かに、厳格に銃所持が規制されており、発砲事件が殆ど起きない日本でも、過去に秋葉原の事件のような刃物や自動車による無差別殺傷事件は起きている。また、自動車による無差別殺傷はフランスの同時テロ事件によって、欧米で警戒が急速に高まって以降、頻繁に起きていると言っても過言ではないような状況だ。そのようなことを考慮して「刃物や自動車を規制しろとはならないのだから、銃所持も同様ではないのか」という論法が用いられることも少なくない。
しかし、刃物や自動車と銃には決定的な差がある。それは、人を傷つける以外の目的で使用されるか否かだ。厳密に言えば、猟銃なども存在しているので、銃も人を傷つける以外の用途がないわけではない。しかし、例えば刃物の携帯を一律禁止してはいなくても、日本では刀剣など武器としての性格が著しく強い刃物を理由なく携帯することは許されないし、購入・所持にも相応のハードルがある。人を傷つける以外の用途に用いられることが限りなく少ない銃を、刃物や自動車と同列に考えることが、果たして適切と言えるだろうか。
当然アメリカと日本の社会情勢は異なるだろうし、野生の猛獣と出くわす恐れのある地域も日本以上に多く存在するだろうから、銃所持に合理性が認められる側面がアメリカには、日本のそれよりはあるかもしれない。しかし、近年日本でも熊や猪が人間の居住域に現れるケースは増えている。怪我人や場合によっては犠牲者が出ることもある。しかし、だからといって銃規制を緩和しろという話にはならない。「それは単に国民性の違い」と言う人も居るだろうし、そんな見解も決して間違いではないだろうが、それでも、スーパーマーケットで銃を気軽に購入できてしまうような状況は、他国民から見れば、ある意味常軌を逸しているようにも見えるだろう。
スイスやイスラエルなど、徴兵制や軍備の関係上、一般家庭でも銃所持が当然である国もあり、銃が社会にそれなりの数存在していても銃乱射事件が深刻化していない国も勿論ある。しかしそれは、逆に言えば、それらの地域は銃所持で問題が起きない国民性だからだろう。それらの国でもアメリカのように銃乱射事件が頻発するようなら、銃規制の機運が高まるのではないだろうか。
今のアメリカの銃に関する状況は、アメリカがならず者国家とした北朝鮮のような国が、核や弾道ミサイルを持ってしまっているような状況なのではないだろうか。あれだけミサイルの発射実験も傍若無人に繰り返すような国がミサイルや核を持つことは、多くの人が適切でないと感じるだろう。同じような視点で考えれば、銃を持つには適切に運用できるだけの能力が必要だということは、多くの人が疑わないことだろう。しかし適切に運用出来ない者でも簡単に銃を入手出来てしまう状況がアメリカには確実にある。もしそうでないのなら、あんなに頻繁に銃の乱射事件は起きないのではないだろうか。
銃規制に消極的な人々には抑止論に関する幻想をさっさと捨ててもらいたい。抑止論的な考え方が事実無根・言語道断の間違いとまでは言わないが、一側面だけに注目し過大に評価するのは適切とは思えない。核政策や使用に関する最終判断を行う権限を持つ大統領なら尚更だ。
個人的には、銃にしろ核にしろ、持ちたがる者は、男の子が武器や戦車などの兵器に対して、強さの象徴のように受け止め、本能的に魅力を感じるような感覚をもったまま大人になってしまった人々であるように感じる。勿論模型やモデルガンなどで満足する程度に魅力を感じるなら何の問題もないが、間違ってもそんな感覚を現実の兵器や武器に持ち込むようなことをしないで欲しい。