スラックス・スカートなどを性別に関わらず自由に選択できる、ジェンダーレス制服なるものを千葉県の新設公立校で採用することを、読売新聞などが報道し、話題になっている。この件について、ネット上では様々な意見が飛び交っているようだ。手放しで賞賛する声もあれば、そんな制服ならいっそ制服ごと廃止すればよいという声もある。また、ジェンダーレスを意識する必要はない、ジェンダーレスなどと謳わない方が好ましいという見解も見られる。中には「あほらしい」とか「ーなんて、バカかよ」など余計な文言を付けて、異なる意見を必要以上に罵倒する者もいるにはいるが、この件については、昨今では珍しく、感情的な議論をしようとする者が、比較的少ない話題のように自分には感じられた。
日本の学生服と言えば、男子は詰襟かブレザーとスラックス、女子はセーラー服・ブレザーとスカートなどが主流だ。学生服は冠婚葬祭などでも着用する、学生の正装だと自分たちの世代は教えられてきたし、それは現在もそれほど変わっていないと言えると思う。一方で、学校を卒業し、社会に出た後の正装は、男性・女性ともジャケット・スラックス・スカートを組み合わせたセットアップのスーツが主流だが、女性は、場合によってはドレスが好ましいとされる場合もある。女性のスーツに関して、以前はスカートが主流で、所謂パンツスーツは少数派、場合によっては正装として相応しくないなんて見解もあったように感じたが、最近はそんな考え方の人はかなり少ないのではないだろうか。最近はそんな事を言えば、性別による差別だとお叱りを受けることにもなりかねない。
しかし、男性がスカートを履くことが適切でないという認識は今も昔も変わらないと言って差し支えないだろう。男性がスカートを履けば、ふざけているとさえ言われかねない。ただ、生物的な性と精神的な性の不一致などの問題に関して、まだまだ発展途上ではあるが、確実に一昔前よりは向上していることも事実で、場合によっては生物的な性が男性である場合でも、女性的な正装が認められるケースは増えているとも言えそうだ。
そんな観点で見れば、確かに、女子がスラックスを選ぶ場合に比べて、男子がスカートを選ぶというケースは確実に少ないだろうが、「男子がスカートを履いてもOK」という制服が定められるということは、性差や性に対する偏見を減らす為にも必要であるようにも思える。しかし、一般的には見た目が男性に見える者がスカートを履くというのは、不自然であることはまだまだ誰もが感じることだろう。だから、「そんな制服を定めるならいっそのこと制服自体を廃止した方がよいのではないか」という主張も一理あるように思う。「学生の制服は本当に必要か?」と考えることは、自分が学生だった当時も、そして現在でもしばしばある。制服の必要性に関しては11/25の投稿でも書いており、これから書くことも似たような話になってしまうが、結論から言えば、自分は、「現在のような強制的に着用させられる制服の必要性は低いが、制服が全く必要ないとは言えない」と思っている。だから制服自体を廃止すればよいという話については、積極的には賛同しかねる。
自分が通っていた小学校は、日本ではスタンダードな制服のない公立小学校だった。小学生の当時は日本で何度目かのサッカーブームの真っ最中で、当時はクラスの半数程度がサッカークラブに入っていたし、男子はスポーツメーカーのロゴ入りジャージや、プロチームのレプリカジャージなどを着ることがある種のステイタスだった。しかし、5年生の担任は「ジャージで学校に来るのは止めよう」という先生だった。理由は、ジャージは運動する時に着る運動着だから、登下校や授業中の服装としては相応しくない、ということだった。その先生は「学校から帰った後のプライベートな時間でジャージを着るのは何も問題ないから、着たいなら帰宅後着るように」とも言っていた。その話をされた時の生徒側の反応は、”何か納得し難い話”だったように思う。
その話を納得できるかどうかは、学校をどんな場所と捉えるかにもよるだろう。学校を子どもの仕事場的に考えれば、大人が働く際に身だしなみに気を付けるように、ジャージが相応しくない場であるということなのだろうが、他のクラスの先生の中にはジャージ姿で授業をしている先生もいたし、学校を家庭の延長線上と捉えたり、学びと遊びを明確に区別せずに捉えれば、ジャージで授業を受けても問題ないという認識になるだろう。ただ、その先生は割合生徒からの信頼も厚く、殆どの生徒、というかクラス全員が、積極的にではなかったかもしれないが、その先生の話を受け入れてジャージで登校しなくなった。
自分はこの教育方針が、絶対的にどんな場合も確実に有効とか正しいとは思わないが、この先生が担任だった2年間のおかげで、実際のところは、それに本当の意味で気が付いたのは高校生になってからだが、時と場合に合わせた服装に注意を払う必要があるということが学べたと思っている。この先生がジャージで登校するなと言っていたのは、ある意味では制服的な意味合いだったと感じる。学校を日常的な生活の場と捉えるか、子どもの仕事場と捉えるかで、その方針が適切かどうかの判断は分かれるだろうが、その方針のおかげで少なくとも卒業式や入学式などに、結婚式や葬式にジャージで行く大人がいないように、小学生・在校生であってもジャージで出席することが、絶対にダメとは言えないが、あまり相応しくないという事だけは確実に学べた。
「それと制服廃止の是非と一体何の関係があるのか」と思う人もいるだろう。制服が無くとも場面場面で相応の服装をすることは学べるかもしれない。制服があると制服に頼り過ぎて、相応しい服装を考えるという発想が生まれにくいという考え方もあるだろうし、そんな考え方も間違いではないだろう。しかし、前述のように学校を子供の仕事場的に捉えるとすれば、毎日相応の服装をする必要性があるということになる。学生がその為にスーツを何着も用意すること、スーツでなくとも学校用の服装を数パターン用意することが難しい家庭も確実にある。ならばジャケットとスラックスかスカートを1セット、シャツを数枚用意すれば済む制服を用意することは、費用の圧縮が出来る場合もあり、ある意味で合理的だ。
ただ、最初に述べたように、学校は子供の仕事場という捉え方を強制したり、若しくはそのような考え方すら説明せずに、ただただ規則だからと制服の着用を強制するような、現在の状況も適切とは思えない。それでは制服を教育に最大限活かせているとは言えず、単に生徒を管理する為のツールとしてしか利用していないことになるのではないか。
自分が通っていた高校は学区内でも有名な校則の緩い高校で、制服はあったが生徒はかなりアレンジした制服の着こなし(視点によっては、だらしなく着崩していると見えただろうが、)をしていた。スポーツ学科があったり、自転車通学が認めらていたりしたので、学校・部活動ジャージでの通学・授業参加も全くお咎めなしの学校だった。しかし、朝礼や始業式・終業式、入学式・卒業式などに関しては、来賓など学校外からの目を気にするという部分もあったのだろうが、制服の適切な着用をちゃんと指導していたし、多くの生徒は時と場合に合わせることを理解していたように思う。逆に言えば、ちゃんとするべき時だけちゃんとしていれば、先生に文句を言われないのだから、最低限規則を守るところは守るという気になっていたのだろう。
中には「そんな付け焼刃的なことでよいのか?」と感じる人もいるだろうが、結局それは、その人が学校を子供の仕事場的に捉えているからだろう。その高校では学校は日常生活の延長線上と捉える者が先生にも生徒にも多かった、と自分は思う。日常の延長と捉えれば、家ではリラックスできたり、動きやすい服装で過ごすのと同じように、学校でもそれぞれが好みの恰好で過ごすのが当然と認識するだろう。しかし何かの行事など非日常的な場面では相応しく制服着用する生徒が多く、言い換えれば多くの生徒はメリハリ、TPOをわきまえるということをそこから学んでいたと、自分は感じている。
そんな経験を理由に、自分は「制服の設定は必要だが、日常的な着用を強制する必要性は低く(勿論日常的に着用しても何も問題ない)、制服以外での登校・授業参加も認めるべき。しかし、朝礼や始業式・卒業式などは制服で参加することを規定するべき」だと考える。そうすれば服装で自己主張したい者は自由にできるし、服装にお金をかけたくない者は制服を着ていられるし、時と場合に合わせた服装をする必要性を学ぶこともできる。さらに性の問題を強く意識させ、偏見を助長するような側面も減るのではないだろうかと感じる。