1/31、F1でレース開始前に各車のグリッド番号を示したボードを掲げる役割を担ってきた、グリッドガールを2018年シーズンから廃止するという発表があった。ハフポストの記事によると、担当者は
グリッドガールは、長らく重要なものだと思われてきましたが、もはやF1のブランドとは合わないと感じています。今の時代と明らかに合わないですから、グリッドガールは、F1にとって、そして世界中のファンたちにとっても、もはや適切でも妥当でもないと思います
とコメントしたそうだ。この発表やコメントを見た個人的な第一印象は、「F1の運営は、かなり古いタイプのフェミニズムから進歩のない時代遅れの組織」だった。
F1の発表ではグリッドガールとされているが、日本では一般的にレースクイーンと呼ばれている。グリッドガールは運営側に属する女性たちで、レースクイーンは各チームに属する女性たちだから(という認識も実はかなり大雑把だが)、厳密にはそれぞれ微妙に立ち位置が異なる存在だ、などと考えている人もいるようだが、個人的には、それぞれの立場には大差なく、単に呼び方の差でしかないと考える。海外の事情には詳しくないが、少なくとも日本においてはサーキットや各レースシリーズのマスコットガールも、各チームのマスコットガールも活動内容には殆ど差がないと感じる。多くの場合、日本のレースではサーキットやレース主催者側の人間がグリッド番号を掲げておらず、各チーム所属のマスコットガールがその役割を担うことが多いし、スタート前に車周辺やドライバー・ライダーの傍らでパラソルを持って日陰を作ったり、ドリンクを持ったりしてサポートしているのも、当然各チーム所属のマスコットガールだ。世界戦なので、開催国によっても微妙に異なるだろうが、自分が知る限り、バイクの世界最高峰シリーズ・MotoGPも同様だ。だからここでは、グリッドガールとレースクイーンを区別して考えない。
個人的には、グリッドガールやレースクイーンが廃止されても何も困らない。日本でサーキットに足を運ぶ者の中には、レース自体よりもレースクイーン目当ての者も多く存在する。これはモーターショウや東京オートサロンなどのカスタムカーショーでも同様で、レースや自動車のイベントなのに、イベントの趣旨よりもマスコットである筈のレースクイーンやコンパニオン目当ての客は、レースや自動車を見に行く自分にとっては邪魔くさい存在である場合も多い。しかし、彼らがレースクイーンやコンパニオン目当てで会場に足を運び、チケットを買ったりグッズを買ったりすることで、レースやイベントが盛り上がっている側面も確実にある。レースクイーンやコンパニオンを廃止すると、確実にその手の客層は足を運ばなくなり、イベントや各チームの収入は減るだろう。それは確実にモータースポーツや自動車文化を現状より盛り下げる結果になるはずだ。
「自動車文化なら、本質的なレースや自動車の魅力をアピールして盛り上げるべき」という声が聞こえてきそうだし、自分も理想はそうあるべきだと感じる。しかし、レースクイーンやコンパニオンに興味を持った人が、レース自体に興味を持ったり、新型車の購入を検討したりする場合もあるだろう。要するに、レースクイーンやコンパニオンによる集客方法は、広告やCMに、イメージを重視して製品やサービスとは殆ど関係のないアイドルや女性タレント、女性だけでなく、男性アイドルやタレントを起用するのと大して変わらないと自分は思う。例えば自動車のCMに女性タレントが出演していても、誰も「自動車の魅力だけで宣伝するべきなのに、女性を見世物にするとは不適切だ!」という旨の文句は言わないだろう。ならばレースクイーンやコンパニオンで集客することも問題はないのではないだろうか。レースクイーンやグリッドガールが女性蔑視の象徴だと指摘するならば、少なくとも自動車のCMに出演する女性も蔑視の象徴になってしまう恐れがある。というか自動車限定で考える根拠は何もなく、全てのCMで女性を起用することが蔑視になりかねない。
「レースクイーンは、男性の興味をそそる露出の高い恰好をしていることが問題で、普通のCMと混同して考えるのはおかしい」と言う人もいるかもしれない。だが、普通のCMにだって水着で女性が出演する場合もある。更に”男性の興味をそそる”という定義も曖昧だ。露出の高いコスチュームを格好いいとか、美しいと捉える女性も確実にいる。レースクイーンやコンパニオンなどが嫌々コスチュームを着せられているなら、恰好が問題だと言う話も分かる。しかし、明らかにそのような傾向が強いなんて確実に言えない。そして、日本ではまだまだ露出度の高いコスチュームが主流だが、世界的には、特にF1では既に露出度の高いコスチュームが主流とは言えない状況になっている。
そんなまどろっこしい話をするまでもなく、グリッドガールやレースクイーンが女性蔑視の象徴ならば、アメリカンスポーツではおなじみのチアリーダーも同様であるという判断が出来そうだ。チアリーディングはそれ自体もスポーツとして発展しているが、彼女らの主な表現の場が、というか最も名誉があり、多くの者が目指す存在が各プロスポーツチームのチアリーダーである。一体どこが女性蔑視なのかを適切に説明出来る者はいるだろうか。
グリッドガールを廃止するということは、昨シーズンまでその役割を担っていた女性から職を奪うということでもあるし、これまで誇りを持ってグリッドガールやレースクイーン・コンパニオンを務めてきた女性を否定することにもなりかねないと自分は考える。だからF1の決定は、女性蔑視に異論を呈しているようで、実は女性蔑視的である側面もあり、とても矛盾を孕んだ短絡的な決定に思えてしまう。
そもそも、グリッドガールを廃止し、グリッド番号を示すボード自体の存在を無くすのならそれでもいいだろうが、これをグリッドガールでない女性が担うことになるのだとしたら、それとグリッドガールと何が一体違うのだろうか。女性ではなく男性なら問題ないということなのだろうか。確かに世界的に男尊女卑の傾向はまだまだある。女性の社会進出はまだまだ十分でなく、例えば、女性議員と男性議員を半分ずつにしなければならないという規定などは、理想的とは言えないが、必要性がないとは言えない。そのような観点で考えれば、グリッドガールでなく、グリッドボーイにすべきなんて考え方が出てくるのかもしれないが、女性の役割を奪って男性に担わせることが果たして適切な対処方と言えるだろうか。
BuzzFeed Japanの記事やcliccarの記事では、現役のレースクイーンやグリッドガールらが、短絡的なフェミニズム感覚に対して批判的なツイートをしていることを紹介している。更に興味深かったのは、ユーザーがツイートをまとめて紹介出来るサイト・Toggeterへの、この件に関する「F1のレースクィーン(じゃなくてグリッドガール)廃止の件、ツイートをちょっとだけ和訳してみた。」という投稿だ。まとめらているのは、レースクイーンやグリッドガールの存在容認派と否定派のやり取りなのだが、その中に、
It’s not just about you. It’s part of a culture that makes other women uncomfortable and pressured and leads to men seeing women as objects. If you were unattractive you wouldn’t have that job; that makes women decoration. This hurts more women than the ones on the racetrack.It’s not just about you. It’s part of a culture that makes other women uncomfortable and pressured and leads to men seeing women as objects. If you were unattractive you wouldn’t have that job; that makes women decoration. This hurts more women than the ones on the racetrack.— Louise Mensch (@LouiseMensch) 2018年2月1日
あなた(現役グリッドガール)だけの問題じゃない。これは女性に圧力と不快感をかんじさせ、男性に女性を物扱いするように仕向ける文化の一つ。あなたが不細工だったら、あなたにその仕事はなかった。要するにグリッドガールは女性を飾りにする仕事。グリッドガールを務める女性たちよりも、グリッドにいない(全ての)女性の方が傷つけられる。
というツイートがある。個人的には”TVタックルに出始めた頃の田嶋陽子的な時代錯誤感満載のフェミニズム”にしか見えない。田嶋さんには申し訳ないが、当時の彼女もこのツイート同様、やや男性に好まれるタイプの女性を妬むような傾向があったと記憶している。自分にはこのツイートをしている人は、一見、全ての女性の権利を憂慮しているように見えるかもしれないが、レースクイーンやグリッドガールを、誇りを持って自らの意思で務める女性の権利は度外視、というか無視している、ように見える。なんと全体主義的な思考だろうか。多様性という視点が欠けているように見えるし、「大勢の為なら少数の犠牲はやむを得ない」と、堂々と宣言しているように思える。
恐らくこのような時代遅れのフェミニズムが、現在の世界的潮流であると認識している時代遅れの団体がF1なのだろう。ブラックフェイスの問題にしてみても、インディアンスのマスコットの件にしても、差別への懸念を根拠に、どうやらタブーをどんどん増やしていくのが世界的な潮流のようだ。個人的には、差別性が疑われ、且つ不快感を持つ者が一定するいるような行為をタブー化することは、確かに短期的には対立を避けるのに役立つ効果があるかもしれない、とも思う。しかし長い目で見れば、結局異なる考えを持つ者、立場の異なる物同士の間にある溝を広げるだけで、建設的な要素は殆どないとも感じる。重要なのは互いに攻撃しあって憎しみを深めることでなく、互いの考えの差を認め合い、否定するのではなく寧ろ容認できるようになることではないだろうか。
確かに、グリッドガールやレースクイーンを務めている女性が、彼女らの意に反し、着たくもないコスチュームを無理矢理着せられ見世物にされているのなら、そんなものは即刻廃止するような代物だろうが、少なくとも日本でグリッドガールやレースクイーンを務めている者、コンパニオンを務めている女性は、アイドルになりたい・タレントになりたいと思って目指す女性と似たような動機で、自らの意思でその職に就いているのに、廃止するなんてことになれば、単に彼女らの職を奪うだけで女性の権利向上には何の効果もなかったという結果にしかならないだろう。そしてそれは、日本に限った話ではない、と自分は確信している。