3/22、NHKは放送記念日の特集として「フェイクニュースとどう向き合うか ”事実”をめぐる闘い」と言う番組を放送した。番組の中で、フェイクニュースがどうしてこうも拡散されてしまうのか、ということについて、既存メディアの信頼性が低下していると感じる人が増えたということをその要因の一つとして紹介していた。
自分は厳密には日本での状況しか知らないので、日本に限った話だが、確かに、テレビや新聞などの大手メディアが特定の事案について取り上げるか否か、又は表現方法、取り上げた場合の時間や情報の量などについて、自分も適切ではないと感じることは多々ある。例えば北朝鮮のミサイル発射に関しては、連日大騒ぎしすぎだと感じていたし、先日のオリンピックに関しても過剰に時間を割きすぎだと感じていた。また、3/23の投稿でも書いたように、東京都の迷惑防止条例改正に関しては取り上げられなさすぎだと思っている。
そんな意味では、大手メディアの報道について全く問題がなく好ましい状態とは思えないが、それでも、ネット上に存在する極端な、場合によっては差別的を容認するような態度を示したりするような、若しくは広告収入をあからさまに意識した事実と明らかに異なる過激な見出しを掲げ、ビュー数の獲得に終始しているような情報発信者よりは確実に”まし”だと感じる。
「テレビや新聞など大手メディアは(主に左よりに)偏向している」と声高に叫ぶ人がネット上には一定数いる。彼らも自分が前段で述べたのと同じように、彼らが取り上げられるべきと考えている事案が取り上げられず、若しくは過小評価され、必要ないと考える事案が取り上げられていると感じてそのような主張をするのだろう。しかし、それだけで「(主に左よりに)偏向している」と言えるだろうか。自分には彼らが右よりに偏向しているから、自分にとって物足りない、若しくは都合の悪い報道をするメディアが左よりに偏向しているように見えているようにも感じる。
「テレビや新聞は左よりに偏向しているから信用ならない」と言っている人達は一体どんなメディアなら信用できるのだろうか。自分が彼らの主張を見ていて感じるのは、彼らは単に自分が信じたいメディアだけを信じ、自分にとって都合の悪いメディアを「偏向している」として、信用出来ないと言っているに過ぎないように思う。また彼らは、「現在はSNSが発達しているので、個人がそれぞれ大手メディアを通さず発信する情報の方が信用出来る」というような主張をすることも多い。大手メディアは手放しでは信用出来ないとするのに、どこの誰かも分からないような個人が発信する情報は、なぜ手放しで信用できるのだろうか。自分の感覚では、確かに大手メディアが報道しないような事を個人の発信によって知る場合もあるが、何の裏付けもなしに信用すると騙され、都合よく利用される場合もあると考える。オレオレ詐欺とか、訪問販売に騙される高齢者などがそのいい例ではないだろうか。
「不特定の個人は手放しで信用出来ないが、政治家の個人発信はメディアによる極解で伝えられる恐れが低く、信用できる」というようなことを言う人もいる。確かに、メディアを介することで微妙にニュアンスが変わったり、一部分だけが伝えられることもあるので、本人の言い分を知るという意味では、政治家の個人的な情報発信にも注目するべきだと感じる。
しかし、政治家の個人発信だけを裏付けなしに信用するのは危険だ。それではあまりにも性善性に頼り過ぎている。これまで起きないとされていた中央官庁による文書の隠蔽・改ざんが頻発するような状況でもあり、政治家の発言だって無条件に信用出来るなんて全く思えない。例えば、森友学園問題に関する議論の中で、首相は籠池氏を詐欺師のような人とし、発言内容は信用に値しないとしている。しかし、もしその話が通用するなら、昨年の国会で虚偽答弁を行い、現在公文書改ざんの首謀者とされているような人物の、国税庁長官への登用は「適材適所だ」と言い続け、「国会に招致して話を聞く必要などない」としていた首相や財務大臣の発言も信用に値しないと言えそうだ。
結局のところ、偏向報道、偏向報道と声高に叫ぶような人達は、自分に都合が悪い情報を批判・否定する為に偏向報道というレッテル貼りをしているに過ぎないのではないか、と自分は感じる。
ということは、フェイクニュースが流通する背景には、既存メディアへの信頼性の低下がある、という話が絶対的におかしいとは言えないが、フェイクニュースを流通させる為に、既存メディアは信用に値しないという認識を醸成しようとしている側面も確実にあるように思う。その結果、既存の大手メディアに対して偏向報道とレッテル貼りをする人が一部で増えているのではないか、と推測する。文科省が前川氏を講師に呼んだ名古屋市の公立中学校へ高圧的な事実確認をしていた問題に関与していた自民党議員が、おおよそ容認しがたい論法で、自信の行いを正当化しようとしていた姿にも、自分に都合の良い極解を正当化する風潮が、じわじわ広がっていることを感じさせられる。