スキップしてメイン コンテンツに移動
 

テレビ番組で視聴者ツイートを表示することの功罪


 今朝のMXテレビ・モーニングCROSSを見ていて政治的公平性・偏向・愛国心などが取り上げられたいくつかのニュースの中で話題に上っていたが、これらには共通点がある。それは、どれも明確な定義が簡単に出来るようなものではなく、人それぞれで解釈・定義・感覚が異なるものであることだ。放送中に画面に表示される視聴者ツイートで、これらに関する主張をしている人の一部には、まるで自分の感覚が唯一の正解で、その他は全て間違いであるかのような印象の主張があった。恐らくそのようなツイートをする人は、自分の主観、自分以外の誰かの主観、そして誰かの主観ではない客観の区別が出来ていない人なんだろうと想像する。また、そのようなツイートがテレビ画面に表示されることで「テレビで取り上げられているのだから、それほど間違った見解ではないはずだ」と感じる人が、少なからずいるのだろうという不安も感じる。

 
 視聴者アンケートは「テレビのニュース番組に政治的公平性は必要か?」だった。政府が放送法4条のテレビ放送の政治的公平性という規定を無くすことを検討していることを受けての設問だ。結果は”必要”が1878票だったのに対して、”必要ない”は1104票だったが、自分が気になったのは結果ではなく、画面に表示されていた、その件についての視聴者ツイートだ。自分はこのブログで再三書いているように、「現在のメディアは偏向している」と声高に叫ぶ人の多くは、




これらのツイートが言っているように、「現在の大手メディアの論調は自分の主張とは異なる論調だから気に入らない」と言っているだけだと思っている。どのメディアかも名指しせずに「日本のメディアは偏向している」などと言うことは相当滑稽だ。日本のメディアということは、概ね全ての日本のメディアということになるのだろうが、ということは、彼らはメディア報道以外から、メディアが偏っていると判断することが可能な中立公平な情報を得ていることになる。メディアを通さずにどのような手段で情報を得ているのかがまず不思議だ。もしかしたら政治家や一部の情報発信者が直接発信する情報を根拠にそう言っているのかもしれないが、何を根拠にそれらの情報ソースの発信は偏っていないと言い切れるのか、そちら側の情報だけを大した根拠もなしに信用することこそ、判断が偏る恐れがあるように感じる。今日の放送の中では、






などのツイートがそれに該当するだろう。公平性の定義は人それぞれ異なるだろうから、現在の大手メディアの報道は公平でないと感じること自体は、彼らの思想信条の自由の範疇だ。しかし逆に言えば、公平性の定義は人それぞれなのだから、なぜ自分がそう考えるか、その根拠を同時に示すことは必要だ。ツイッターの文字数制限や、番組内で画面に表示される為には60文字以内に収めなくてはならないという、更に厳しい文字数制限があること、元来ツイッターとは、ふとした個人の思いを短文で書き込む場であることを勘案すれば、そのような厳密さを求めるのは場違いかもしれないが、説得力を見いだすことの難い、単なる個人の主観の表明であることに変わりはない。勿論、個人の主観の表明自体は何も悪いことではないが、読む側は、それは確実に客観的な事実ではないことを理解しておく必要がある。
 また、少し視点が違う、大手メディアに対する不信感を表明しているツイートも幾つかあった。





これらは前述の4件と視点は異なるが、結局のところ、個人の主観的な見解を述べているに過ぎない点は共通している。何故そう感じ始めたのかは定かでないが、大手メディアの不信感を煽りたい人・勢力がネット上で展開する主張に影響された恐れもあるのではないか?と推測する。もしそうだとしたら、偏っているのは大手メディアなのか、大手メディアの不信感を煽りたい側なのか、結局のところ個人の主観での判断でしかない。要するに、偏っているか否かだけを叫ぶことに、誰もが納得できる合理性があるとは思えない。
 そんな視点とは少し違う少数派意見もいくつかあったが、その一つが以下のツイートだ。



確かに戦前・戦中、新聞が政府に都合の良い記事ばかり掲載したこと、情報統制を受けたラジオ局も同様だったこと、一党独裁の中国のメディアは今も似たような傾向があることなどを考えると、同じような視点の報道が多ければ、偏りを疑う必要はあると思う。しかし、現在の日本では、確かに政府に必要以上に配慮しているように見えるメディア・記事も一部にはあるように感じるが、権力に寄り添った報道一色の状況であるとは思えない。また、スポンサー企業の意向に偏った報道や記事も確実に存在するだろうが、全ての報道機関を牛耳る程の企業が存在しているとは思えない。そんな意味では、同じ視点の報道が多くても偏向報道とは言えないのではないだろうか。同じ視点の報道ばかりが偏向に該当するなら、例えば北朝鮮の振舞いに批判的な報道機関ばかりで、容認するようなメディアが全くないことも偏向に該当することになりそうだ
 現在の大手メディアを偏向報道と批判している人に対する反対意見の中に、



というツイートがあった。この感覚は正しいとは言えないと自分は思う。何故なら、自分と異なる主張や、その傾向のある報道機関に目を向けなければ、不適切さを指摘することは出来ないからだ。要するに「見なけりゃいい」ということは、万が一嘘が報道されていても放置しておけばいい。ということになる。例えば、いじめを受けて苦しんでいる人に「反論すると事態は悪化するから、無視して耐えるのが最善の対処だ」と言えるだろうか。「メディアが信じられなければ見なけりゃいい」と言うツイートをするなら、恐らく「そんなツイートをするなら、様々な視点のツイートが画面に表示されるモーニングCROSSをみなけりゃいい」と反論されるだろう。
 このような視点と似たような楽観的な主張をする、

@chu_toro2kan
好きにやらせておけば勝手に淘汰されるでしょ。
(リンクを探す前にコメントが削除されていた)

というツイートもあった。確かに、戦中は大手新聞が主戦論に染まってしまった過去もあるが、現在新聞にはテレビのような政治的公平性という規定がないにも関わらず、大きな偏りがあるとは到底思えない状況で、民主主義的な自由が保障された社会では、神の見えざる手によって正常な状態が保たれる可能性は充分あるとも想像できる。しかし、ネット上はテレビや新聞よりも更に自由な風潮があるが、明らかなフェイクニュースの横行が社会問題化しているような状況である。昨日の国会審議を見る限り、政府はネットの動向を見て、テレビ放送にも政治的公平性の規定は必要性が低いと考え始めたようだが、自分にはそんな風には全く思えない。
 これはあくまで個人的な推測でしかないが、



このツイートが言うように、若年層ほどテレビの視聴量が減りその分ネットに触れる時間が長い傾向にあること、現政権の支持率が若年層になればなるほど高くなる傾向にあることなどを考慮して、地上波テレビがネット放送のような傾向になれば、高齢層でも支持率の向上が望める可能性がある、若しくは若年層の地上波視聴を促す可能性があり、より若年層の支持率を強化できるという思惑も、政府にあるのではないかと想像する。


 また、番組では、葛飾区の教育委員会が、4年前に自殺した男子生徒について、両親が「いじめが原因」と訴えていたのに対して、調査委員会が「いじめとはみとめられない」という調査結果を示したことについても取り上げていた。委員会は、「自殺した生徒は、部活動のミーティング後複数の生徒から霧吹きで水をかけられたり、ズボンを下ろされそうになったりした」ことは認めたが、「部活動内で日常的に許容されていた遊びの手法で社会通念上のいじめには該当しない」と結論付けたそうだ。これに対する視聴者ツイートは、







など、調査委員会の結論には賛同できないという内容が殆どだった。勿論自分も、もし悪ふざけであっても、高い頻度で一人に対して集中的に霧吹きで水を浴びせていたり、ズボンを脱がせようとしていたなら、若しくはそれらの行為は調査結果の1回だけでも、似たような行為が頻繁にあったのなら、自殺を決意させるのに充分ないじめになると思う。そして、そうであった恐れが強いように想像する。しかし、番組の原稿や、自分が見た限り他のメディアの記事でも、どんな頻度だったのかや、どんな状況下でそのような行為があったのかについての言及はない。記事の文面からはやや想像し難いが、もしかしたら自殺した生徒だけが個人攻撃を受けていたのではなく、日によって対象となる生徒が異なっていたなどの可能性もなくはない。
 この場合、詳しくどんな状況だったのかを報じないメディアに問題があると思う人もいるだろうが、恐らく、調査委員会がメディアで報じられた以上のことに言及せず、率直にそのまま報道されているのだろう。勿論最良の報道は、独自に取材を重ね、実際の詳しい状況に迫り、調査委員会の発表が正しかったかどうかを検証することだろうが、「それができなければ報道機関は偏っている」とまでは言えない。というか寧ろ、偏っているのは曖昧な結論しか示さなかった調査委員会か、明示されていない被害者の状況を想像で補って調査委員会を批判している人達のどちらかだろう。
 この件に関するツイートの中で最も注目したいのは、以下のツイートだ。



受けた側がそう感じたら、いじめ・セクハラ。という考え方は一見合理的なようで、実は結構な危険性を秘めている。例えば、痴漢事件には一定数冤罪事件も存在する。昨夜のNHK・ろんぶーんでは、痴漢に関する論文を紹介していたが、その一つは、臀部の感覚は何で触られたかを正確に知覚できるほどのものではない。というものだった。要するに、被害者の「触られた」という証言だけに頼って判決を下すことは相応の誤審の恐れを伴うという結論の論文だった。セクハラも同様で、受けた側がそう感じたらセクハラが成立してしまうなら、例えば「いやらしい目つきで見られた」と言うだけで、誰かをセクハラ加害者に仕立て上げることが可能になってしまう。いじめも同様で「みんなが無視している」と言い出せば、例えそんな事実が無かったとしても、そんな弁解をする余地も認めずクラス全体、教員も一緒になって一人をいじめたという認定することが出来てしまうだろう。

 そして、「『愛国心』レベル、自己評価も 識者『考え縛りかねない』 中学道徳教科書」という、3/28の朝日新聞の記事を引用し、2019年度から道徳が評価を伴う教科に格上げされることで検定を受けた一部の道徳の教科書で、愛国心などを数値化して自己評価する欄を設けたものがあることに関して、専門家などから懸念がしめされていることも取り上げていた。これは、以下のツイートなども、




懸念を示しているように、戦前・戦中教育の中で、国にとって都合の良い愛国心が賞賛され、また、それに異を唱えると非国民などとされ、全体主義・軍国主義的な社会が生まれてしまったことを前提にした懸念だ。
 これについては、まず、





という、番組が取り上げた論点を全く無視したツイートが目立った。記事でも、番組でも愛国心=悪というようなことは一切言っていないのに、一体どこをどう読んで「愛国心と言って非難される」「愛国心で騒ぐ」「愛国心がダメ」と受け止めたのか理解に苦しむ。記事や番組で指摘されたのは、誰かの、特に政府など権力側に都合の良い愛国感が、戦前・戦中のように教育を通じて子どもに植え付けられる恐れがある点だ。恐らく、見出しだけしか見ずに、このように記事に書かれていないことを勝手に想像しているような人が「大手メディアもフェイクニュースを垂れ流している!」とか、「大手メディアは偏向報道」などと触れ回っているのだろうと想像してしまう。彼らこそ、偏っていると言われるべきではないだろうか。大体「日本だけ」云々などと言っている人は、一体何か国の状況を理解しているのだろうか。
 また、似たようなツイートで、



というツイートがあった。まず「愛国心自体が悪い」とは言っていないのに、「意味がわからない」と言えてしまう”意味がわからない”。更に、高校野球で自分の出身県を応援する人は多いが、出身県高校を応援することで評価されたり、応援しないと評価が下がるような状況は現状一切ない。万が一応援しないと評価が下がったり、非難されるような状況になったとして、それが好ましい状況とは到底思えない。道徳や愛国心を数値化して評価すると、そのような状況にもなりかねない。
 また、少し毛色の異なる方向で批判するツイートもあった。



自然な愛国心をないがしろ」にしたとは一体どのようなことを示唆しているのだろうか。”自然な”愛国心なら、個人の内心からまさしく”自然に”現れるものだろうから、蔑ろにすることなど到底不可能としか思えない。



愛国心という言葉が用いられたから拒否反応が起こっている」と言いたいようだが、愛国心という言葉が重要なのではなく、思想信条の自由が制限される、若しくは抑制され、誰か、主に政府など権力に都合の良い考え方が強制されることになりかねないことが憂慮されいるだけだ。
 この件の問題点をとても端的に示していたのが、



このツイートだ。例えば、国語のテストでは「以下の文を読んであなたはどう感じましたか?〇〇文字で述べなさい」というような設問に出くわす。本来、どう感じるかは個人の自由で「面白かった」とだけ答えようが、制限文字数ギリギリで事細かに説明しようが構わないはずだろうが、テストでは後者の方が確実に高評価になる。要領の良い回答者は全く自由に回答するのではなく、高得点を期待して、出題者がどう答えて欲しいのか、どう答えて欲しいかは言い過ぎだとしても、どのような形式で回答して欲しいのかを予想してその形式で回答する。
 道徳に評価を導入すると同じことが起こりかねない。



というツイートもあったが、これまでも道徳の時間は設けられていたが、教育で全体主義的な道徳観が植え付けられ、また国の為に死ぬことが崇高かのような意識が蔓延した戦前戦中の過ちを勘案し、これまで道徳教育には評価が導入されてこなかったのに、来年度から評価を伴う教科に格上げ?されるということだ。



というツイートを見ると、結局のところ、記事や番組の取り上げ方に批判的ではない人の中にも、”愛国心という言葉の問題”であるかのように捉えている人がいるであろうことが分かる。前述したようにツイッターとは、元来個人のささやかな思い・感情・受け止めを吐露する場所でもあるので、番組ハッシュタグをつけて呟く場合でも、確実に番組の意図に沿った内容をツイートしなければならないというルールはない。しかし、これらのツイートを見る側は、番組で取り上げた論点とは異なることを理解して読む必要がある。
 そのようなツイートを画面で取り上げるなら、それについて触れておく必要があると自分は考える。確かに今日などは、出来る限りMCの堀潤さんは視聴者ツイートに触れていたように見えたが、それでもまだ足りないように思うし、愛国心がダメなんて一切記事も番組も言っていないのに、そのようなことが記事に書かれたり、番組が主張しているかのように主張するツイートを画面に表示して、そうではないことに全く触れないということは、ある意味では事実と異なるレッテルを引用記事に貼る手伝いを、番組がそのようなツイートを表示することでしているようにも思える。
 
 視聴者の主張を広く取り上げるのにツイッターというプラットフォームは、ある意味では最も適していると言えるかもしれないが、その文字数制限によって短絡的だったり、過激な主張だったりになり易い傾向もあるだろうし、明らかに事実と異なるツイートをテレビ放送で電波に載せ、誤った認識を広める恐れもあるという問題点も確実に孕んでいることを、今朝の放送で再確認させられた。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。