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感情的で身勝手な動物愛護感


 3/1、多くの報道機関が、過密状態・小さなケージに複数惹きの頭数で飼育されていた、福井県内の所謂・子犬工場について一斉に報道した。報道が取り上げた、施設に立ち入った動物愛護グループの関係者・県職員らのコメントは「まるで地獄、直視できる状況じゃない」、「強烈な悪臭が鼻を突いた」などだった。確かに狭い部屋に尋常じゃない頭数の子犬がいる映像・画像が報じられ、適切な飼育環境とは思えなかった。まさに子犬”工場”という表現が、残念ながらしっくりくるような状況に見えた。商業的な理由で子犬を、まるで単なる商品かのように大量生産するような行為が適切かと言えば、決してそうとは言えないと自分も感じた。

 
 しかし、自分がこの件に関する映像を見ていて想像したのは、養鶏場で飼育されている鶏たちや、養豚場で飼育されている豚たちが置かれている状況と似ている、ということだった。実際にどちらの方が過密具合が高いのかは詳しく分からないし、最近の養鶏・養豚はそれなりに飼育環境に配慮している施設も多いのだろう。現に放し飼いで育てられているとして、商品価値の高さをアピールしていることもある。しかしそれがアピール材料になるということは、狭い囲いに押し込められて育てられている場合の方が多いということの裏返しだ。また、鶏や豚が食糧・商品として大量生産されていることは間違いない。鳥や豚が似たような環境で飼育されていても、動物愛護団体やマスコミらは特別取り上げるようなことはないのに、犬や猫などの愛玩動物の場合だと急に大騒ぎするように自分には見える。そしてそれに何となく矛盾を感じたりもする。
 
 平昌オリンピック期間中の2/23、ハフポストが「韓国の犬食を批判したオランダ選手が謝罪『侮辱するつもりはなかった』」という記事を掲載していた。オランダ人スケート選手が試合後の記者会見を終え、会見会場から退出する際に「どうかこの国で、もっと犬を大切にしてください」と唐突に発言したそうだ。このコメントに対して韓国内で「他国の文化に対する人種差別的で無知な発言」、「IOCは、人種差別発言を許すべきではない」という批判が噴出したらしく、当該オランダ人選手は、侮辱する意図は無かったとした上で、

私を知っている人はご存知かもしれませんが、私は動物をとても大切にしています。しかし、あの場でするべき発言ではありませんでした

と謝罪したそうだ。韓国の一部に残る犬食文化への、特に欧米からの批判は自分が知っているだけでも、これまでに複数回行われている。2002の日韓ワールドカップの際にも似たような話があったし、今回のオリンピックの開催決定後も複数回取り上げらていたし、開催期間中、このオランダ人選手以外にも、犬食文化に抗議して欧米の参加選手が帰国時に子犬を連れて帰るなんて報道もあった。
 犬を食べる文化は韓国特有の話ではない。韓国以外のアジア諸国の一部にもこのような食文化が残る地域は複数存在するし、一般的なのかどうかは分からないが、アフリカのある国の現地リポート番組で、犬肉をつかった料理を紹介しているのを見かけたことがある。個人的には、「犬をもっと大切にして欲しい」という発言に対して”人種差別的”という批判はやや言い過ぎのような気もするが、犬食文化への一方的な批判は、異なる文化の不当な否定行為、要するに多様性を軽視した感覚の押し付けであるように感じる。このように感覚を他文化に押し付ける傾向は、欧米人に多いように感じられ、その多くが白人によって行われているように思える。そんな意味では、白人による有色人種への偏見に基づいた思考であるようにも感じられるだろうから、人種差別的という反発に繋がってしまったのだろう。
 また、オランダ人選手は謝罪したそうだが、そのコメントの中にはまだ反感を買う部分が残っているように思える。それは「私は動物を大切にしています」という部分だ。この文言から推測できるのは、

私は動物を大切にしています(だから、この国はもっと犬を大切にしろと言いました)。しかし、あの場でするべき発言ではなかった。

という彼の思いだ。勿論究極的には個人がどのような感覚を持とうが、それは基本的人権が保障された民主的な国家の国民であれば個人の自由の範疇だ。だから確かに、彼の言うように「思っていたが言わなければよかった」だけの話であることも事実だが、彼の頭の中に、犬を食べる=動物を大切にしていない、という感覚があることを裏付ける発言でもあるだろう。彼の国でも牛豚鳥魚は普通に食べているはずだが、なぜ牛豚鳥魚を食べることと動物を大切にすることは両立するのに、犬を食べることと動物を大切にすることが両立しないという感覚になるのだろうか。それは単に彼の生きる文化圏で犬を食べる習慣がないからというだけのことでしかない。
 例えば、彼が厳格なベジタリアンで一切動物性たんぱく質を口にしない人物なら、動物を食べること=動物を大切にしない、という感覚を持つことも理解出来るが、他のいくつかの記事を見ても、彼がベジタリアンだという記述は全く見かけないし、もしそうなのだとしても、韓国の犬食文化だけを批判するような態度では、その感覚は差別的と言わてれも仕方がないと自分は考える。彼が自国でも動物を食べること自体に否定的な主張をしているという記事も見かけない。
 
 2/25の投稿で、奄美大島の野良猫問題について触れた。結局、今日の投稿で取り上げた2つの件から感じられるのも、人間の身勝手さだ。自分は、冒頭の福井の子犬工場を肯定したり容認したりするつもりはないし、同時に現在の養鶏・養豚の状況を批判するつもりもない。しかし、子犬工場に批判的な動物愛護団体・マスコミには、自分たちが好む一部の種に対してだけ動物愛護精神を発揮しているような、ある種の偽善性を感じてしまうし、犬食文化を一方的に批判する欧米人らにも似たような偽善性を感じる。
 日本ではすし屋や魚市場などでマグロ解体ショーをしばしば行い、多くの日本人は「おいしそう」と感じ、更に兜焼きで頭を丸焼きにしたり、目玉を食べたりすることはとても普通なのに、モンゴルやシベリアの遊牧民が家畜を解体するシーンや、アフリカの内陸部などの食文化・羊や牛、ラクダなどの頭の丸焼き、また、脳みそを食べたりすると「残酷で見ていられない」などと、ある種蔑んでいるかのような態度を見せる日本人の多さにも違和感を感じる。当然文化的・習慣的な差があるから見慣れないのは仕方ないし、魚は「おいしそう」、動物だと「残酷・気持ち悪い」と感じることもある種自然かもしれないが、それでも蔑むような感覚を持つこと、あからさまにそう見える反応を示すのは適切とは言えず、単なる文化の差として認識するべきではないだろうか。
 2017年11/12の投稿でも同じような事について書いたが、特に海外の文化を紹介するバラエティ番組などで、テレビ的なお約束に則っているだけなのかもしれないが、それでもそんな反応を出演者が示していると自分は強い嫌悪感を覚える。何故なら、彼らがそのような反応を悪びれずに示すこと、その裏側にある問題性を考慮せず、注意喚起すらなしにそのまま放送することは「異文化嫌悪には何も問題ない」というメッセージを視聴者、特に未成年者に与えてしまいかねないと考えられるからだ。勿論このような考え方を過剰だと思う人もいるだろうし、保護者らがなによりもまず「この人達はアホな芸能人だし、テレビ番組なんてヤラセ(ヤラセは言い過ぎだとしても、台本に沿って求められた反応をしているだけ)なんだから真に受けるな」と指摘するべきだろうが、あまりにもそのような風潮の番組が多く、もう少し配慮が必要であるように自分は感じる。

 そうでなければ、今後日本でも一方的に自分の価値観を押し付け犬食批判をするような、歪んだ動物愛護感を持つ者が今後増えてしまう恐れがあるのではないだろうか。

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