この週末、表現に関する2つの案件が主にネット上で話題になっていた。一つは、池袋マルイで3/9から開催が予定されていた「ふともも写真の世界展」という写真展が中止されたこと、もう一つは、渋谷のスクランブル交差点で授乳している写真を撮影し、それを公開した女性に関してだ。結論から言うと、個人的には批判している人の多くは、潜在的にかもしれないが、クレーマー的な感覚を持っているのではないか、と感じている。批判の内容に関して全く道理が通らない話とまでは言えないだろうが、それでも必要以上に潔癖性を追い求め、若しくはそれを他人に押し付けようとしているように思える。
まず、ふともも写真展の中止に関して。日刊スポーツの記事「ふともも写真展中止『お客さまのご意見を受け』」でも触れられているように、ネット上で行われた批判の多くは「未成年者を撮影していると感じさせる演出が多い」ことや、「性的な印象を抱かせるような写真展をデパートで開催するのは不適切」などだ。また、この件に関して「アートなのかエロなのか」という視点で論じる人もいるようだが、アートとエロの境界線なんて人それぞれ異なるし、はっきり言ってそのような視点で見解の異なる者同士が意見を交換しても、平行線のまま何も話は進まないと思う。この件の重要な点は、アートかエロかではなく、何故不適切と言えるか、言えないかではないだろうか。自分は前述でも述べたように不適切とまでは言えないと感じる。
まず「未成年者(の性)を感じさせる演出」云々という話に関しては、ハッキリ言って考え過ぎだと思う。まず、太ももは、胸・尻・股間のように世の中の大半が性を感じる部位とは明らかに異なる部位だ。少し前に所謂ブラック校則が話題になった際に、ポニーテールを禁じる校則が存在していることが話題になっていたが、そんな奇妙な校則が存在する理由は「うなじを見た男性が欲情する恐れがある為」とのことだった。うなじに欲情する男がいるからポニーテール禁止とか、性的だから太もも写真は不適切なら、おかっぱの髪型や、ミニスカートやホットパンツを履いた女性はふしだらな女性ということになってしまいそうだ。2/27の投稿で、千葉の歴史的な景観を再現した施設で、コスプレ写真撮影の受付が中止された理由の一つに、コスプレイヤーが胸元や足を露出することが不適切ということもあった事に触れ「足の露出が不適切って、一体何時代生まれの感覚なんだ」と批判したが、太もも云々もまさに同様だ。
次に、未成年者を感じさせる演出についてだ。確かに、未成年者を裸にして性的な行為をさせるなど、明らかに児童ポルノの該当するような写真展なら、確実に適切とは言えない。しかし未成年を”連想”させただけで不適切というのは如何なものか。日本人は比較的年齢よりも幼く見える人が多い。特に欧米人から見れば20代の日本人の大部分は10代に見えてしまうそうだ。そして欧米人から見た場合に限らず、日本人から見ても、10代前半にしか見えない者もそれなりに存在している。特にアイドルなどにはそんなタイプの人が多い。また、ポルノ女優の中にもそのようなタイプの人がいる。幼く見えるポルノ女優は、演出云々に限らず未成年者を連想させるだろうが、果たしてそれは不適切だろうか。幼く見える女性がアダルトビデオに出演したり、ドラマで濡れ場を演じることは不適切なのだろうか。
最後に、デパートに相応しいか否か、という話について、自分が率直に思うのは「批判している者の内、一体どれくらいの割合の者がデパートを常日頃利用しているのか」ということだ。利用していないから批判する権利がないということではないが、昨今デパートの売り上げは右肩下がりで、批判している者の多くがデパートの積極的な利用者だとは想像し難い。彼らは一体デパートに何を求めているのだろう。自分はデパート側には「何とかして話題を作って店舗に足を運んで貰いたい」という意図があったのだと考える。批判をするのは自由だが、この写真展を批判していた者は、そんな状況を是非とも汲んで、デパートを積極的に訪れて売り上げに貢献して欲しい。
もう一つの案件・渋谷スクランブル交差点での授乳を撮影した写真について、ハフポストが掲載した記事によれば、写真をFacebookに投稿した女性は授乳の不便さに違和感を抱き、
少子化で子どもの数も少ないのに、これ以上子どもに触れる機会が減ってしまったら、「子育てしている人」「子育てしていない人」の間に、大きな隔たりが生まれたまま、その溝がどんどん深くなっていって、より一層神経質になってしまう状況があるんじゃないかなって。
という思いを語っている。これに対しての批判の多くは、「他人の授乳など見たくないから授乳室へ行け」「敢えて公衆の面前で授乳している場面を撮影し公開する意味があるのか」とか、「子供を自分の主張の手段に用いるな」などだ。
まず、人前での授乳の是非に関してだが、自分が小学生だった80年代前半頃までは、人前での授乳なんて全く珍しくなく、喫茶店やデパートの食堂などで赤ちゃんにおっぱいをあげているお母さんなんて普通の風景だった。自分は子供の頃、電車の中で授乳させている女性を見かけた記憶もある。確かに最近はそんな場面に遭遇することはめっきり減った、というかほぼ皆無だ。それは自分も感じる。しかし、現状がそうだとしても、決して授乳は不快な行為ではないし、子どもに見せるべきでない性的な行為でもない。授乳室があるのは、恥ずかしいと感じる女性が利用する為であって、他の場所で授乳をするのが不謹慎ということではない。感覚が逆転してしまっていると自分は思う。また、敢えて撮影して公開する意味に関しては、意味が感じられないのは個人の自由だろうが、「私が意味を見出せないから、みんなもそうだろうし、だからお前も止めろ」と言いたげなのは、また話が違うと思う。
もう一つの批判、自分の主張の為に子どもを利用するなという話について、今朝のMXテレビ・モーニングCROSSでコメンテーターのフィフィさんも、このような視点で主張をしていた。彼女は、
母親というか、成人は何をやっても許されるんだと、どんなに社会の中でTPOを考えずに主張しても、私たちに沿うべきなのだ、従ってやっていくべきなのだ、それで制度を変えていくべきなのだと言って、何かその、他の人達の権利もあるのに、共生社会において自分達の主張を維持することだけが強くなって、他の人達の権利が取り残されていないか、その中で子供も重要
とコメントしていた。また「マタニティフォトなんかを撮る人もいるが、あれをわざわざ世界に発信するとか、子どもの成長を発信することとか、子どものプライバシーが置き去りになっていないか」という見解も示していた。自分はこの話には全く賛同出来なかった。
フィフィさんの言いたいことは「このような発信の仕方は他人の権利(恐らく彼女が想定しているのは主に子ども権利)を犯していないか」ということだろう。しかし、子育てに関する問題提起に子どもを一切登場させないのはそれはそれで不自然だろうし、授乳のし難さを訴える場合に、文字で書いたり人形を使ったり何かを擬人化して表現するよりも、実際に親子で授乳している写真で訴える方が遥かに訴求力は高いだろう。
確かに、その点に関してはフィフィさんも一定の理解は示していたし、子どもの写真などを不用意にSNSなどに掲載することには相応のリスクもあるだろう。しかし彼女が、子どもが確実に全く写らないマタニティフォトに噛み付いていたのは理解に苦しむ。単に彼女がその手の表現が好みでないだけとしか思えない。要するに、彼女は他の人の権利云々という懸念を示しながら、一方では表現する人の表現する権利を軽んじているように思える。更に言わせてもらえれば、子どもの写真をSNSに掲載する行為には危険性もある。しかし現在多くの人は無制限に公開しているわけでなく、知り合いだけに制限して掲載している人の方が多いのではないだろうか。
彼女がマタニティフォトに噛み付いていることから想像すると、彼女は、芸能人らが自分の子どもをテレビに出演させたり、ブログやSNSでよい父・母をアピールする為、言い換えれば商売のネタに利用しているように見えることを想定して批判しているのかもしれない。確かに、自分もそこに全く問題がないとまでは言えないと感じるが、しかし、そのような事を指摘し始めたら、子役全般について親のエゴということにもなりそうだし、未成年の芸能活動全般に懸念が及ぶかもしれない。また、子役でないにせよ、タレントを親に持つということは、タレント業で稼いだお金で育てられているという側面もある。芸能人の親が子供をSNSに登場させたりテレビに出演させることは、ある意味では子どもの生活の為でもあると言えそうだ。
勿論芸能人であれば、パブリックな存在になることのメリットもデメリットも芸能人ではない人より意識しているだろうから、一般的な人のそれとはまた少し毛色の異なる話かもしれないが、フィフィさんの主張は少し神経質すぎるように思う。何がそう感じさせるのかと言えば、やはり、子どものプライバシーへの懸念がほとんど感じられないマタニティフォトに噛み付いていたことだ。あの発言が彼女の主張全体の説得力を著しく下げているように思う。
余談だが、モーニングCROSSの番組公式ツイッターアカウントは、この件を紹介するのに、
@morning_cross
3/5(月) 「オピニオンCROSS」でフィフィさんはなぜ「授乳フォト」を渋谷のスクランブル交差点で撮ったのか
とツイートしていた。これではまるで、フィフィさんがスクランブル交差点で授乳している写真を撮影して公開した、かのようにも読めてしまう。テレビ番組、しかも報道番組の公式アカウントなら、もう少し誤解を生む余地のない表現に努めて欲しい。
これらの2つの件から感じるのは、”不謹慎というだけ”で言動を制限しようとする風潮が昨今強まっており、場合によっては批判された側が過剰に反応し、さらにその風潮が広がるのに拍車を掛けているという共通点だ。個人的には、不謹慎だというだけの批判には大した意義はない、と思うものの、批判を行うことも表現として認められるべきであるとも思う。しかし、太もも写真展中止などのように、過剰に反応して安易に批判に屈するのだけは止めて欲しい。それでは所謂ノイジーマイノリティー、厳しく言えば、神経質なクレーマー気質の少数者を増長させるだけで、どんどん息苦しい社会になってしまうだろう。昨今の臭い物にはとりあえず蓋を、という風潮に社会の状況を良くする効果があるとは全く思えない。
大した根拠もない単なる個人の妄想でしかないかもしれないが、このように自分と異なる価値観を排除しようとする志向を持つ者は、ヘイトスピーチを行ったり、民族差別的な主張を行う者の予備軍なのかもしれない。