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政治家のよる家族観の押し付け


 自民・二階幹事長が6/26に東京都内で行われた講演会で、

 この頃、子どもを産まない方が幸せに生活が送れるのではないかと勝手に自分で考えてね。

と発言したそうだ。 率直に言って、子どもを産まない方が幸せな生活が送れるかもしれない、と考えることは個人の勝手で、政治家、それも政権与党の幹部にとやかく言わる筋合いなどない。勿論、少子化とそれによる労働力不足・社会福祉政策維持への懸念が高まっていることは当然知っている。しかし、二階氏の発言は余りにも短絡的で、政治家の発想としてあまりにも陳腐だ。多くの人が子どもを産んで育てられる環境を整え、子どもを産んだ方が幸せだと感じる人が増えるようになる政策を行うのが政治家・行政の仕事ではないのか。子供を産まない選択をする人を責めるような発言はどう考えても容認し難い。


 この件について、主要な新聞は軒並み取り上げている。


これらを読み比べてみると、各紙の姿勢が見えるようで興味深い。
 まず産経には「批判の声が上がっている」という旨の表現が一切ない。「子供をたくさん産み、国が栄え、発展していく方向にしよう」という部分に注目し、二階氏の発言について、半ば肯定的に捉えているようにも見える。読売も産経と同様に、見出しの発言とは別に「みんなが幸せになるために子どもをたくさん産んで国も栄えていく方向にしようではないか」という表現があったことも紹介している。しかし産経では言及がなかった批判的な声、国民民主・玉木氏が「特定の家族観や考え方を押し付けるのは時代錯誤。自民党は古い価値観にとらわれた『おっさん政党』だ」と批判したことも紹介している。毎日も見出しの表現とは別に産経が引用したのと同じ部分も紹介しているが、「食べるのに困るような家はもう今はない。今晩お米が用意できないという家はない。こんな素晴らしいというか、幸せな国はない」というまた別の発言も紹介し、「貧困問題への認識が低いとの批判も浴びそうだ」評している。東京は毎日とほぼ同じ内容で、こちらも子どもの貧困率を紹介し、二階氏の認識不足に対する懸念を示している。最も批判的なのは朝日で、他の新聞で紹介されている「子どもをたくさん産み、国が栄え、発展…」やそれに類似する部分への言及はない。一応「皆が幸せになるためには子どもをたくさん産んで、国も栄えていく」という部分は引用しているが、「子どもを持たない家庭を批判したとも受け取れる発言だ」と評し、それについても否定的である。

 個人的に興味深いのは、どの記事も発言の全体を紹介していないことだ。この手の話については、注目されている部分の前後も確認しておかないと、的確な判断が出来ない場合もしばしばある。どんなに大きなメディアの記事・報道だろうが人間が記事を書いている以上、絶対的に中立な記事などあり得ない。勿論恣意的に歪曲して都合よく解釈するのは論外だが、発言の中からどの部分に最も注目するかは個人個人でも違う。というか違って当然だ。だから、二階氏の発言を出来る限り的確に認識する為には、注目された部分がどのような流れで発せられた言葉だったのかは重要だ。
 ただ、当該の表現の前後だけでなくどんな講演会だったのかも、二階氏が日頃どんな姿勢なのかまで知らなければ、厳密に言えば適切な判断を下せないかもしれない。しかし、そんなことが出来るのは担当記者だけだろうから、ある意味では一般的な国民は記者の書く記事に頼らざるを得ない。そんな意味では、最も多く二階氏の発言をそのまま紹介している東京新聞の記事が、これら5紙の中では一番評価出来ると自分は考える。

 TBSラジオ・荻上チキのSession22 では、二階氏の発言を、当該部分の前後も含めて文字おこししている。それを読んでみると、前述したどの新聞の記事も概ね適切であると言える範疇だろう。冒頭で自分が批判したことに大きな間違いはないし、また、毎日や東京新聞が指摘・批判している、二階氏の発言の

 食べるに困る家は実際はないんですよ。一応はいろいろと言いますけどね。「今晩、飯を炊くのにお米が用意できない」という家は日本中にはないんですよ。

という部分に関しても、認識不足であると言わざるを得ない。東京新聞が指摘しているように子どもの貧困率が先進国の中で高い水準であることや、子ども食堂という取り組みが、社会的に盛り上がる程必要性があることなどを、自民党の幹事長ともあろう人が知らないとは驚きだ。もし、知っていたのに度外視・無視して講演を行ったのであれば、今後の彼の発言の信憑性は確実に低まる。

 自民党の有力議員らの子育て・少子化に関する、やさしく言えば認識不足の発言、厳しく言えば妄言は枚挙に暇がない。朝日新聞は、

 加藤寛治衆院議員が「必ず新郎新婦に3人以上の子どもを産み育てて頂きたいとお願いする」と述べ、撤回。萩生田光一幹事長代行も「赤ちゃんにパパとママどっちが好きかと聞けば、ママがいいに決まっている」と発言するなど、少子化をめぐる失言が相次いでいる。

と批判しているが、はっきり言って直近だけでもここまで重なれば、最早「失言」ではなく、「自民党に蔓延する”体質”」だと言わざるを得ない。
 ハフポストが6/22に「なぜフランスは少子化を克服できたのか。その理由は、日本とは全く違う保育政策だった。」という記事を掲載している。紹介されているフランスの家族観をそっくりそのまま日本に当てはめれば、少子化問題が必ず改善するとまでは言わないしそんな風には全く思わないが、それでもこの記事を読んでいると、「選択制夫婦別姓ですら認める必要などない」と考える人が、制度実現を妨げるほど日本社会の中にいることから判断するに、一部の日本人の凝り固まった家族観、そして同調圧力が変わらない限り、少子化や労働力不足が改善することはないように思う。

 不十分だし公約違反と言わざるを得ないがそれでも、確かに現政権はそれなりに保育政策を改善しようとしている。しかしその一方で、党幹部らが凝り固まった家族観を未だに持ち続け、勿論考えを持つこと自体は構わないが、党幹部らが別の考えの人に対して同調圧力をかけるような発言をしているようでは、政権・与党が現在進めようとしている保育無償化は、考えたらずの付け焼刃ではないのか、という懸念を感じてしまうし、結局は焼け石に水にしかならないようにも思える。
 こんな状況では指摘した通り少子化・労働力不足解決には程遠いだろうし、公約を果たせない程度の保育無償化も、票集めの為のばら撒きと批判されても仕方ないのではないだろうか。

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