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放送法4条・政治的公平性の規定について


 財務省の公文書改ざん・自衛隊の日報隠蔽が高い注目を集めているので、ややその注目度は低いかもしれないが、3/29の投稿でも触れた、放送法4条の撤廃を政府が検討しているのではないか、という件が先月来話題になっている。放送法4条で定めらているのは、放送における政治的公平性に関する規定だ。現政権は放送制度改革を掲げており、その一環として放送法4条撤廃を政府が検討していると、朝日新聞が「放送法の「政治的公平」撤廃を検討 政府、新規参入促す」という見出しの記事を掲載するなど、3/24前後に複数のメディアによって報じられた。ただ、これを受けてか、時事通信の記事「放送法4条撤廃の具体的検討を否定=政府答弁書」などによると、見出しの通り具体的に検討している事実はないという見解を政府は示した。ただ、個人的には”具体的には”検討はしていないけど、検討はしているということなのだろうと推測する。

 
 ロイターの記事「焦点:動き出す放送法改正、政府は公平規制緩和に意欲」などからも分かるように、首相は2/6の衆院予算委員会で、

私は、AbemaTVに出演したが、ネットテレビは視聴者目線に立てば、地上波と全く変わらない。技術革新によって通信と放送の垣根がなくなる中、国民共有財産である電波を有効活用するため、放送事業の在り方の大胆な見直しが必要だ

と述べている。この発言の中では「放送事業の在り方の大胆な見直しが必要」と言っているだけで、放送法4条の撤廃には触れておらず、他の面での制度改革を示唆しているのかもしれない。しかし、2016年に当時の高市総務大臣が、政治的公平性を欠く放送局に電波停止を命じる可能性に言及した件など経緯などに触れた毎日新聞の記事、「放送法4条撤廃案:首相、批判報道に不満か」などを見れば、そして朝日新聞を名指しして批判する態度を、首相だけでなく副総理なども度々示していることを考えると、首相らが一部のメディアの報道姿勢に不満を持っていることは明白だ。そして、現在の民放キー局には、政権に強い懸念を呈する放送局はあるが、少なくとも自分には、政権を強く擁護する局があるようには思えない。しかし、ネット番組を制作・公開している組織の中には、政権を強力に擁護している勢力もあり、放送法の政治的公平性の規定がない方が自分たちにとって都合がよいので、AbemaTVを引き合いに出して政治的公平性の必要性の薄さを印象付けたいという思惑があった発言なのかもしれないと想像する。

 放送法4条が出来たのは1950年だそうだ。なぜ「政治的公平性」という規定が出来たのかについて考えたい。戦前・戦中、日本では報道統制や国家による検閲が行われた結果、政府からの強い指示が無くても、新聞や雑誌・ラジオなどメディア側も率先して政府の意向を忖度し、政府に都合の良い情報しか報道しなくなったそうだ。特に戦中は、軍の中枢である大本営の発表に一切の疑いを示さず、正しいとは到底思えない内容ばかりが、そっくりそのまま報道されるような状況だったと、自分は祖父祖母に聞かされたし、学校などでもそのように習った。
 戦後、メディアが政府に利用されたことで戦争に向かう社会的環境が醸成されたことなどを、繰り返してはならない過ちとして、ラジオやテレビ放送が政府などの権力に都合のよい報道に染まらないように、政治的公平性の規定が出来たと自分は理解している。要するに、政治的公平性の規定は、政府がメディアに過剰に介入することのないようにという観点で出来た規定と言ってもよいだろう。ということは、高市総務大臣が停波に言及したことは、当時批判されたように、条項の意味を都合よく捉えて民放局に圧力をかける行為に思えるし、要するに現在放送法3条に定められている、放送内容に対する外部の介入を禁じる規定に抵触する恐れが強い。また、もし政府が本当に政治的公平性の規定撤廃を検討しているのなら、高市発言を念頭に置いて考えれば、自分たちに都合の良い報道を行う局を誕生させようと狙っているのではないかと懸念する。

 戦後、政治的公平性の規定が定められたのは、テレビやラジオなど放送メディアに関してだけで、戦中同じく大本営発表に染まった新聞や出版にはそのような規定は定めらていない。なぜ放送だけに規定が設けられたのかと言えば、放送は電波利用に限りがあり、一定数以上放送局を増やすことが現実的でないが、新聞・出版にはそのような上限がなく規制の必要が高くないという判断があったことや、表現の自由などとの兼ね合いなどもあったことがその理由だったのだろう。情報を送り出す側の数が多ければ、一部のメディアが偏った報道をしても、全体がそれに染まる恐れは低いという見解があったのだろう。ただ、政治的公平性に関する規定が無くても、新聞、特に大新聞、そして主要な出版社も、たまにいい加減な報道がなされることもあるにはあるが、概ね過去も現在も正常な状態が保たれていると言えそうだ。「だから放送業界にも規定は必要ないんじゃないか」という主張をする人もいる。
 しかし安倍首相が例に挙げた、新聞・出版と同様に政治的公平性の規定のないネットメディアの状態を考えれば、首相の言う「視聴者目線に立てば、地上波と全く変わらない」という見解は、大きく現状を見誤っていると言わざるを得ない。彼は、世界中、少なくとも多くの先進国でフェイクニュースが横行している事実を、全く理解していないのかもしれない。というのは勿論皮肉で、自分の主張に説得力を持たせる為に、都合の良いAbemaTVというネット放送局を挙げたのだろう。AbemaTVはインターネット関連企業・サイバーエージェントと既存の民放キー局・テレビ朝日が出資して設立したネット放送局で、AbemaTVにテレビ朝日の持っているノウハウが活かされていることは、テレビ朝日のアナウンサーが多く出演していること、テレビ朝日の関連施設で収録されている独自番組も少なくないことなどから、視聴したことがある人には一目瞭然だ。要するに、首相が挙げたAbemaTVはネット放送局であることに間違いないが、その背景に、政治的公平性の規定の下で運営されている民放局があることにも注目する必要があると言える。
 確かに、AbemaTVの番組では、公平性の規定がないことが良い方向で反映されていることもあり、首相の視点が絶対的におかしいとまでは言えないかもしれないが、ネットメディアはAbemaTVだけではない。その他のネットメディアには、フェイクニュースを平気で流すようなメディアもあることを首相が認識していないのであれば、それはかなり深刻な話だし、そうではなく都合の良いことだけに注目することで、自分の話の合理性を高く印象付けようとしているのだとしても同様に見過ごすことの出来ない話だ。
 ”政治的”な話ではないが、BuzzFeed Japanが4/8に掲載した「ウソや不正確な医療情報を生み出す「市場の歪み」をなくすには? 私たちにできること」という記事からも分かるように、2016年12月にWELQという健康情報サイトで、質の低い医療情報が組織的に大量生産していたことが明らかになり社会問題化したことに端を発し、2017年もヘルスケア大学というサイトや、マイナビウーマンなどで同様の問題が指摘され、そのようなサイトでは不適切な記事・情報が削除されたり、サイトそのものが閉鎖されるなどの措置が講じられたが、医療分野でも同様の情報はまだまだネット上で多く流通しているし、その分野以外でも、いい加減な情報が多く発信され、そのセンセーショナルな見出し・内容によって、事実かどうかの検証記事などよりも注目を集めている状況が改善されているとは間違っても言えない。このような状況を勘案すれば、ネットメディアに問題がないとは到底思えない

 アメリカでも過去には、放送の公平原則(フェアネス・ドクトリン)という規定があったが、CATVなどの普及による多チャンネル化が進み、新聞や出版同様情報の送り手が増えて著しく偏りが起こる恐れが低まったなどの理由により、規定は1987年に撤廃されたそうだ。しかし、これに関しては好意的に受け止める人もいるようだが、その影響で過激な論調の放送が増え、放送局の政治的党派色が強まった為、規定の復活の必要性を訴える声もあるそうだ。
 そんなアメリカで先月、193もの地方局のニュース番組で、「This is extremely dangerous to our "democracy"(民主主義にとって極めて危険)」という同じセリフが読み上げられ、トランプ政権に批判的なCNNなどへの懸念が示されるということが起きたそうだ。これは、それらの放送局を傘下に収めるアメリカ最大級の、CNNをフェイクニュースと堂々と呼ぶトランプ大統領寄りのメディア企業・Sinclair Broadcast Groupが、傘下の放送局に読み上げを強制したことで発生した案件だそうだ。これについて全体主義的とか、報道の自由が失われているという批判が起きているらしい。この件についてはGigazineの「アメリカ最大のメディアがトランプ大統領びいきの報道を地方局に強要していると非難が集まる」という記事などで、詳しく書かれている。
 
幸いなことに、放送事業の監督官庁の野田総務大臣は、規定撤廃に反対しているようだし(野田聖子総務相 放送法4条撤廃や放送局への外資規制廃止に反対 - 産経)、与党内でも石破氏(放送法4条撤廃「民主主義にとって健全か」自民・石破氏 - 朝日)や岸田氏(自民・岸田政調会長、放送法4条「慎重に議論すべき」 - TBS NEWS)などは慎重論を唱えているようで、現在は深刻に危惧するような状況とは言えないかもしれないが、それでも、今後も注意深く見守る必要があるだろう。
 確かに、政治的公平性の規定などの影響により、一番情報が欲しい選挙期間中などに、候補者に関する報道が民放では殆どされないのに、投票日の開票特番など、投票時間が閉め切られてから、知りたかった情報がまとめて放送されるという場面に何度も出くわした経験があるし、それが改善されれば国民の投票行動を促すことにも繋がるだろう。そんな意味では、政治的公平性に関する規定の解釈についての議論の必要性がないとは言えないが、ネットメディアの問題点や、放送の公平性規定を撤廃したアメリカで起きた事案などを考えると、規定の撤廃が望ましいとは間違っても思えない。 

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